網目の零番

写真怪談

夕方のテニスコートは、音が少ない。ボールの弾む乾いた高音も、掛け声も、日が傾くと薄い膜みたいに遠のく。残るのは、金網が風を受けて鳴る、ごく小さな震えだけだ。

そのコートの脇には、ゴルフ練習場の防球ネットが高く張られている。街の空に、もうひとつの“壁”が立っているみたいに見える。電線はそこへ向かって何本も走り、どれも途中でたわまず、やけに真っ直ぐだった。

ある日、仕事帰りにその角を通った人が、何となく見上げて写真を撮った。フェンス越しの空と、柱と、電線。夕暮れの青がまだ残っていて、黒い線が幾何学模様みたいに綺麗だったから、ただそれだけの理由だと言っていた。

違和感は、帰宅してからだった。

写真を拡大すると、金網の目のどこか一つだけが“欠けて”いる。切れているのではない。目がほどけているのでもない。そこだけ、網目の線が背景の空に溶けて、四角形が一つ、抜け落ちている。

拡大率を変えると、その欠けが移動した。

右上に寄ったり、柱の縁へ寄ったり、まるで網目の中を“探している”みたいに、ゆっくりと位置をずらす。指でなぞると、画面越しに指先が冷たくなった。ガラスの上を滑っているだけなのに、濡れた糸を触った感触が残る。

翌日、同じ場所を通って見上げても、欠けは見つからない。金網はきっちり張られ、目は均一で、どこにも穴はない。だが写真の中では、あの四角だけが確かに“不在”で、しかも昨日とは違う位置にいる。

それから、夕方になると音が増えた。

テニスコートの脇、ゴルフ練習場の方から、ボールがネットに当たる音がする。ドス、という鈍い衝撃が、一定の間隔で続く。誰も打っていない時間帯だ。ネットの向こうは薄暗いのに、音だけは正確に、同じテンポで来る。

数えてしまう。人は規則を見つけると、数で安心しようとする。

一、二、三、四。

五で一拍遅れる。

六、七、八、九。

十のあとが続かない。続くはずなのに、途中で“零”が混じって、音が一瞬だけ空白になる。耳の奥で、数字の順番が崩れた感じがして、胸がざわつく。

その夜、写真をもう一度開いた。

欠けた網目は、柱のすぐ脇に来ていた。四角の空白が、柱にぴたりと寄り添っている。そこだけ背景が少し暗く、空白の中に、細い線が浮いて見える。電線の影ではない。もっと近い、網の“内側”から伸びる線だった。

線は、数字みたいな形をしていた。

読み取れるほど鮮明ではないのに、意味だけが先に入ってくる。零。あるいは、始点。数え直し。最初に戻れ。

写真を閉じようとした瞬間、部屋の中で、同じ音が鳴った。

ドス。

ゴルフボールがネットに当たる鈍音だ。あり得ない。窓の外ではない。隣室でもない。天井からでもない。音は、机の上のスマホの画面から出たように、すぐ近くで鳴った。

ドス、ドス、ドス。

一定の間隔。いつものテンポ。五で遅れる。十の前で、零が混じる。

画面の欠けた四角が、わずかに広がった。網目ひとつ分ではない。もうひとつ、隣の四角まで欠けが侵食し、空白が二つになった。そこから、糸のような黒い線が、端末の縁へ向かって伸びてくる。

翌朝、スマホのガラス面には、薄い“擦れ”が残っていた。拭いても取れない。傷ではないのに、光の角度でだけ浮く。四角い擦れが、ちょうど網目みたいに並んでいる。その中心に、ひとつだけ、擦れのない四角がある。そこだけ、完全に無傷で、つるりとしている。

不思議なのは、その無傷の四角が、日を追うごとに位置を変えることだった。

朝は左上。昼は真ん中。夕方には、画面の下へ降りてくる。まるで、こちらの生活の中で“移動できる”場所を覚えていくように。

そして夕方、例の角を通ると、ゴルフ練習場のネットに当たる音が、いきなり近くなる。視界に誰もいないのに、耳元でドス、と鳴る。反射的に見上げると、金網の目のどこか一つが、ほんのわずかに暗い。穴でも、影でもない。暗さそのものが、四角形に切り取られて貼り付いている。

そこが“零番”だと、身体が先に理解した。

零番は、数え始める場所だ。規則の起点だ。起点を渡すと、数える側が数えられる側に変わる。

その瞬間、電線が一斉に鳴った。風でも揺れでもない。張り詰めた弦が、誰かの指で弾かれたような音。視界がほんの少しだけ傾き、空が広がる。網目が、こちらへ寄ってくる。金網が迫ってくるのではない。自分の輪郭が、網目に合わせて“縮む”。

急いで歩き出すと、足元に違和感があった。靴底が、何かに引っかかる。地面は平らなのに、見えない段差がある。振り返りたくなる衝動をこらえて、ただ前を向いた。

家に戻って靴を脱いだとき、足首の内側に、細い線が一本ついていた。擦り傷みたいに赤い。だが血は出ていない。線は一本ではなく、よく見ると、四角い“跡”の一辺だった。皮膚に、網目が刻まれはじめている。

その夜、スマホを見ないようにして眠った。暗闇の中で、あのテンポだけが耳に残る。

ドス、ドス、ドス。

五で遅れる。

十の前に、零が来る。

零が来るたび、部屋のどこかで“空白”がひとつ増える気がした。引き出しの中、カーテンの隙間、鏡の端、息の間。空白が増えるほど、何かが入り込める場所も増える。

翌朝、スマホの画面の擦れは、ついに画面の中央に来ていた。無傷の四角が、ちょうど自分の顔が映る位置にある。そこだけ、何も映らない。黒でも白でもない、ただの“抜け”。

指を伸ばして触れた瞬間、遠くのゴルフ練習場で鳴るはずの音が、すぐ耳元で鳴った。

ドス。

そして今度は、遅れなかった。五で遅れない。零も混じらない。完璧に揃ったテンポで、こちらの呼吸の間にまで食い込んでくる。

規則が、完成したのだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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