私は仕事柄、春先の光をよく撮ります。
桜そのものじゃなくて、桜が咲く少し前の、まだ空気の奥にだけ春がいるような光です。木の葉の色が冬よりわずかに柔らかくなって、アスファルトの白っぽさが急に目につきはじめる頃。郊外の商業施設のまわりには、そういう光が妙に似合うんです。広い道路、低い植え込み、背の高い街灯、遠くに見える看板。人が多いわけでもないのに、車だけは絶えず出入りしている。ああいう場所には、昼間なのに、少しだけ現実の膜が薄くなる時間があります。
あの日も、そんな午後でした。
駐車場の出口に黒い車が停まっていて、私はそのリアまわりを低い位置から撮っていました。磨かれたガラスに、青い空と街路樹と、向かい側の歩道がきれいに映り込んでいたんです。右手には植え込み沿いの細い歩道、その先に街灯。車の出入り口には、交通整理の年配の男性が一人立っていました。紺の制服に、少し色褪せた誘導棒。陽に焼けた顔で、忙しくもないのに妙に丁寧な身ぶりをする人でした。
そのとき、歩道を歩いていた人間は、その人しかいなかった。
それははっきり覚えています。こちらがシャッターを切る前、ちょうどフレームの中に入ってきそうだったので、私は一度待ったんです。誘導のおじさんが少し奥へ動いてから撮った。だから、誰がそこにいたか、そこにいなかったかを、私は仕事の癖でちゃんと見ていたんです。
ところが、帰ってデータを開いたとき、変なものが写っていました。
車のリアガラスの中に、親子連れがいたんです。
薄い色の上着を着た母親らしい人と、黄色い服の小さな子ども。二人は手をつないで、まるで買い物帰りみたいに、春の光の中を歩いている。顔までは判然としません。でも、親子だと分かる歩き方でした。大人が歩幅を少し狭めて、子どもの歩みに合わせている、あの感じです。
私は最初、映り込みのいたずらだと思いました。
背後の別の通路にいた人が、角度の関係で入り込んだのかもしれない。そう考えて拡大したんですが、それがどうにも合わない。ガラスの中の街灯も植え込みも、実際の歩道の位置ときれいに重なっているんです。二人だけが、そこにいる。
それで、ようやくもうひとつの異変に気づきました。
歩道に落ちている影が、一人分しかないんです。
街灯の影とは別に、はっきり人の影が一本だけ伸びている。肩の線が少し張っていて、手元が細長く突き出している。どう見ても、誘導棒を持った交通整理の男の影でした。なのに、その肝心の男はガラスには映っていない。代わりに、いるはずのない親子が映っている。そして、その親子には影がない。
嫌な汗が出ました。
多重露光でもない。連写のズレでもない。時刻情報も一枚きり。レンズの汚れやゴーストなら、もっと形が崩れる。これは、そういう写り方じゃなかった。そこにいるものが、そこにいる理屈だけ、静かに抜け落ちている写真でした。
次の日、私は同じ時間に、同じ場所へ戻りました。
年配の交通整理員は、昨日と同じ位置に立っていました。植え込みの切れ目で車を止め、歩行者がいない歩道へ、なぜか一拍置いてから誘導棒を振る。私はしばらく離れて見ていたんですが、その“間”がどうしても気になった。まるで、誰かが横を通り過ぎるのを待っているみたいだったんです。
休憩に入ったところを見計らって、私は写真を見せました。
すると、その人は驚かなかった。
ただ、少しだけ目を伏せて、小さくうなずいたんです。
「……今年も、あの角度だと写るんですね」
そう言ってから、男は自分の話をぽつぽつ始めました。
十年近く前、この場所が今みたいな出入り口になったばかりの頃、奥さんと娘さんがここへ迎えに来る途中だったそうです。仕事が長引いて、終わるまで少し待っていてくれと電話をした。そのあと、バックしてきた車の死角に入った。事故そのものを見た人は少なくて、男が駆け寄ったときには、もう、春の風だけが妙に明るかったそうです。
それ以来、その人は毎年、この時期だけこの現場に立つようにしていると言いました。
理由を聞くと、少し笑って、
「ちゃんと渡してやれなかったからですよ」
と、それだけ言ったんです。
男の話では、奥さんと娘さんは、生きている人間の目の前には出ないそうです。
黒い車の窓、店のガラス、自販機のくすんだ面、そういう“向こう側が少し混じるもの”の中にだけ、並んで見える。いつも、事故の日の続きみたいに、こちらへ歩いてくる。でも、振り返るといない。声をかけても駄目で、立ち止まって待っても駄目。ただ、車を止めて、道を空けてやると、反射の中だけで二人が通っていく。
「影はね」
男は写真を見たまま、そう言いました。
「こっちにいる人間の分しか、落ちないんでしょう」
その言い方が、妙に忘れられません。
悲しいとも怖いとも違う、もう何度もそれを確かめてしまった人の口ぶりでした。
それから私は、仕事を口実に何度かあの場所へ通いました。
春の陽が傾きはじめる少し前、あの黒い車か、似たような濃い色の車が停まると、男は決まって誘導棒をほんの少し高く上げる。誰もいないはずの歩道へ向けて、子どもを急がせないような、やわらかい振り方をするんです。
そして写真を確認すると、やはりいる。
最初の一枚では、母親と子どもは並んで歩いているだけでした。
次の一枚では、子どもが少しだけ男のほうへ顔を向けていた。
さらに次の一枚では、母親の空いた手が、誰かに会釈するみたいに胸のあたりまで上がっていた。
私はそのたびに、画面の隅へ目をやりました。
歩道の影は、いつも一人分でした。
細く長く伸びた、年配の男の影だけ。
だからこそ、見てはいけない家族写真を覗き込んでいるようで、データを閉じるたびに胸の奥が冷えました。
その年の終わりに、私は別の現場でその人のことを思い出しました。
理由もなく、もう一度だけあの場所を撮っておきたくなったんです。けれど冬は光の角度が違って、ガラスはただ空を映すばかりで、何も出ませんでした。代わりに、警備会社の詰所の人から、あの男性が年明けに亡くなったと聞かされました。持病が悪くなったらしい。春を待たずに、だったそうです。
翌年の三月、私は私用で近くを通りました。
仕事じゃないのに、気がついたらカメラを持っていた。あの出入り口には、若い交通整理員が立っていました。てきぱきした、感じのいい人でしたが、もちろん、あの男ではありません。
私は道の端に寄って、去年と同じ角度で黒い車のリアガラスを撮りました。
シャッターを切った瞬間、理由もなく、ああもう写るな、と思いました。
帰って画像を開くと、案の定、ガラスの中に母親と子どもがいました。
去年と同じ、春の明るさの中です。
ただ、一つだけ違っていた。
歩道に落ちている影が、三人分になっていたんです。
真ん中の小さな影の左右に、大人の影が一つずつ並んでいた。
右側の影だけが、手に細い棒のようなものを持っていて、三つの影は、きれいに同じ方へ伸びていました。
実際の歩道には、誰もいません。
若い交通整理員は車道の反対側に立っていたから、そこへ影が落ちるはずもない。
私はその写真を、まだ消していません。
春先の、光の硬い午後になると、ときどき開きます。
すると今でも、あの親子は慌てずに歩いていて、その少し外側を、ようやく追いついたみたいに年配の男の影が並んでいる。
あの人は、最後までちゃんと渡したかったんでしょうね。
たぶん、自分の家族を。
そして渡り終えたあとで、今度は自分が向こう側へ行った。
そう思うと、怖い写真のはずなのに、画面を閉じたあと、部屋のどこかに春の匂いだけが少し残るんです。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

