ある春先に、ひとつの対戦格闘ゲームがゲームセンターで動き始めた……そんな話が、「三十五周年」の小さな集まりで語られていたそうです。
会場は、駅前の古い雑居ビルの地下だったといいます。いまは閉店前の片づけの最中で、半分ほどシャッターが 내려り、蛍光灯も間引かれていたそうです。硬貨の触れ合う音。景品機のモーター音。床を伝う、かすかな振動……。事情を知らない人が見れば、ただ少し古びた遊技場に見えたのかもしれません。けれど、その場にいた人たちの視線は、ひとつの筐体にだけ集まっていたそうです。
筐体というのは、画面の下に、二本の棒と丸いボタンが並んだ台のことです。片側に人が座り、反対側にも人が座れるよう、向かい合わせになっている。顔を合わせず、腕と指先だけで勝負する……そういう対戦台が、店の奥に残されていたそうです。
「昔はさ、あの“アッパー昇龍拳”が出せたらヒーローだったんだよ」
誰かがそう言って、隣の人がうなずいたそうです。
「“立ちスクリュー”もね。一回転させて投げるやつ。ジャンプしちゃうんだよ普通は」
専門用語はいくつも飛び交っていたそうです。詳しくない人には意味が取りづらくても、その熱だけで、その場所が“戻りたい時間”を抱えた場所なのだと分かった……そんなふうにも聞きます。
店主が電源を入れると、画面はいつものように明るくなったそうです。懐かしがる声が上がり、硬貨の落ちる音が続いたといいます。その場で見ていた人は、一番端に立っていたそうです。対戦台の片方に若い男性、もう片方に年上の男性。肩越しに眺めると、二人は同じ動きを何度も繰り返していたそうです。棒を素早く倒し、ボタンを叩き、また戻す。指先は軽く、息は重かった……そう記されています。
対戦が始まってすぐ、ひとつの違和感に気づいたそうです。
対戦台の“もう一席”が、ひとつ余っていたのです。
向かい合わせに二人が座っているはずなのに、椅子が三つ並んでいたそうです。店主は「昔の連結台の名残」と説明したそうです。勝ち残った人が、そのまま横へ移ることもあったらしい……とのことでした。つまり真ん中の椅子は“空席”で、そこに座っていた誰かの気配だけが、習慣のように残っていたのかもしれません。
その空席の前に、硬貨が一枚落ちていたそうです。
誰も落としていない、と皆が言ったそうです。それでも硬貨はたしかにそこにあり、床のゴムマットの上で、わずかに回って止まったといいます。
誰かが拾おうとした、その時です。
空席の椅子が、ぎ、と鳴ったそうです。
誰も触っていない。椅子の脚が床を擦る音だけがして、椅子がほんの数センチ、前に寄ったそうです。まるで、座る人を迎えるように……。
その場では、いったん笑いが起きたそうです。「ビビらせるなよ」「空調の風じゃない?」そんな言葉が交わされ、皆、いったんは目を逸らしたといいます。昔話に戻ろうとした……けれど、空席の前の床には薄い埃が積もっていて、そこだけが妙に“くっきり”していったそうです。
足の形だったそうです。
つま先だけ。片足分だけ。
それが一歩、前へ出るように増えた……と。
さっきまで、そこには何もなかったはずです。そう口にすれば、その場が冷える。せっかくの記念の夜が壊れる。そんな空気があったのかもしれません。誰も、それを正面から言葉にしなかったそうです。
次の対戦が始まったそうです。棒が倒れ、ボタンが鳴る。画面の中で人影が飛び、ぶつかり、倒れ、また立ち上がる。誰かが「いまの、アッパーだ」と言って笑い、もう一人が「いや立ちだ、立ちスクリュー狙ってた」と返したそうです。
その時、空席から音がしたそうです。
棒を倒す音。ボタンを叩く乾いた音。
しかも、その手元のリズムが、目の前の対戦のリズムと“噛み合って”いたといいます。合いの手のように、勝敗の山場にだけ、空席の音が重なってきたそうです。
背中が冷たくなった……と、その場にいた人は語っていたそうです。
空席が、観戦している。
そうとしか言いようのない気配だったそうです。
年上の男性が勝ったそうです。周囲が拍手し、彼は照れ笑いを浮かべて立ち上がったといいます。そして空席の横を通り、筐体の裏へ飲み物を取りに行ったそうです。
その瞬間でした。
空席の椅子が、また鳴ったそうです。ぎ、と。
今度ははっきり、座る時の動きだったそうです。人の体重がかかったときの沈み込み……見えない何かが腰を落としたように、座面がわずかに下がったといいます。
誰かが気づいて、声が詰まったそうです。
笑いは、その時に途切れたといいます。
空席の前の床に、足跡が二つになっていたそうです。両足分。しかも、椅子の前で止まっていた……座った人の足の位置、そのままに。
店主が「冗談はやめてくれ」と言ったそうです。けれど、その声は震えていたそうです。店主は筐体の前へ立ち、空席に向かって手を伸ばしかけ……引っ込めたといいます。触れられなかったのでしょう。見えないものに、自分の手の存在を渡すのが怖かったのかもしれません。
年上の男性が戻ってきたそうです。「どうした?」と笑いかけ……空席の足跡を見て、顔色が変わったといいます。
「……ここ、昔……」
彼は言葉を探すようにして、喉を鳴らしたそうです。
「俺、ここで……勝ったことない相手に、一回だけ勝ったんだ。三十五年前じゃない。もっと後。夜遅くて、客が少なくて……相手、顔が見えなかった」
皆、黙ったそうです。対戦台は向かい合わせでも、照明や角度で顔が見えないことはあるそうです。よくある話で済むはずなのに、その“顔が見えなかった”という一点だけが、いま目の前にある空席とつながってしまったようです。
「勝ったとき、隣の椅子に……誰か座ってた気がした。友だちでも店の人でもないのに。声は出さない。手元だけ、すごい速さで動いて……」
彼は自分の手首を押さえたそうです。
「俺、その人が出した技、いまでも覚えてる。アッパーの……あの、上に跳ねるやつ。音だけが、耳に残ってる」
空席から、また音がしたそうです。
今度は速かったといいます。棒がぐるりと回るような音。円を描くように、規則正しく。
「一回転だ……」誰かが呟いたそうです。「立ちスクリューの入力……」
見えない手が、練習している……そう見えたそうです。
しかも、上達していた。
まるで三十五年ぶん遅れた時間を、この場で取り戻そうとしているようだった……そんなふうに語られています。
年上の男性が、堪えきれずに叫んだそうです。
「やめろ! 俺は――」
言い終わる前に、空席の椅子が前へ滑ったそうです。
床に残る足跡が、もう一歩、前へ伸びた。椅子の脚の跡が、埃を削って線になったといいます。座っていた何かが、立ち上がった……こちらへ寄ってきた、ということなのかもしれません。
その場にいた人は、足が動かなかったそうです。逃げればいいのに、目だけが離せなかった。筐体の画面の明かりが、空席の背中を照らしているはずなのに、そこに“影”がなかったそうです。影がないのに、椅子は動く。足跡は増える。音は鳴る……。
年上の男性は対戦台に戻り、椅子に座ったそうです。逃げるのではなく、座ったのです。古い習慣のようなものが、彼を引き戻したのかもしれません。
「俺が、返す。返せば終わる」
そう言って、彼は硬貨を入れたそうです。手は震えていたのに、棒を握る指だけは妙に慣れていたといいます。
向かいの席には誰もいなかったそうです。空席のままです。なのに対戦は始まった。画面の中で、相手が動いたそうです。普段の対戦と変わらない。勝敗も成立する。音も映像も、いつも通りだったそうです。だからこそ、怖かった……そこにいるはずのない相手と、当たり前のように戦えてしまうことが。
年上の男性は、必死に技を出したそうです。上へ跳ねる攻撃。回転の投げ。観客の誰も声を出せなかった。応援もできない。祈ることもできない。ただ、指先の音だけが、空気を刻んでいたそうです。
その時、ひとつのものを見てしまったそうです。
空席の側の棒が、ほんのわずか揺れていたのです。
見えない指が、たしかに握っているように。
そして、空席の座面の埃の上に、指の跡が増えていったそうです。五本。はっきり五本。押しつぶされた丸い跡……。
年上の男性の額に汗が浮かんだそうです。そして彼は勝った。
勝った瞬間、拍手が起きそうになって……誰も手を叩けなかったといいます。
空席から、拍手がしたそうです。
音だけの拍手。手の形はないのに、掌が打ち合わさる音だけがしたといいます。
その拍手が、真横から聞こえたそうです。
年上の男性が、ゆっくり顔を上げたそうです。空席のほうを見た。
次に、こちらを見た。
「……いま、俺の手……」
彼の右手首のあたりに、赤い跡が浮いていたそうです。指の形。五本の指が、ぐっと掴んだ跡……。まるで誰かが後ろから手首を押さえて、回転を“手伝った”ような。
彼は立ち上がろうとしたそうです。椅子が鳴る。彼の足が床を蹴る。
――蹴ったはずなのに、足が動かなかったそうです。
床に、足跡が増えていったといいます。
彼の足跡ではない。
埃の上に、彼の靴の周りを囲むように、裸足のつま先がいくつも増えていったそうです。子どもの足でも大人の足でもない。妙に細く、爪先だけが長い足跡が、椅子の周りを輪にしていった……そうです。
店主が駆け寄ろうとしたそうです。けれど、途中で止まったといいます。床の輪の外に、足が出せなかったそうです。見えない境界のようなものがあり、どうしても踏み込めなかった……その場にいた人も、同じだったそうです。
年上の男性は、必死に腕を引いたそうです。けれど、引けなかった。
右手が棒を握ったまま、離れない。
……いや、握っているのは彼の手だけではなかったのかもしれません。棒の上に、もう一つ、半透明の手の形が重なって見えた気がした……と、そう語られています。輪郭だけが、画面の明かりでかすかに縁取られていたそうです。
次の瞬間、彼の身体が、椅子に“戻された”そうです。
座るつもりのない座り方で、腰が落ちた。背もたれに叩きつけられるように沈み、口から空気が漏れたといいます。声にはならなかったそうです。
空席が、隣に寄ったそうです。
椅子がもう一つ、彼のすぐ横へ滑った。ぎ、と鳴った。
そこに座った“何か”が、彼の肩に腕を回したように、彼の肩がわずかに沈んだ……そうです。
そして、彼の指が動き始めたといいます。
自分の意思ではない速さで。
棒が回る。ボタンが鳴る。アッパー、回転、またアッパー。
練習の音ではなかったそうです。披露する音。見せつけるための音……そう聞こえたといいます。
彼の目が、私たちを見たそうです。
助けてくれ、ではなかった。
「見てろ」という目だったそうです。
見えない相手が彼の体を借りて、私たちに“操作”を見せている……そうとしか見えなかったといいます。
誰かが泣きそうな声で言ったそうです。「やめて……」
その声に反応するように、空席の足跡が増えたそうです。輪が広がった。観客の足元へ、じわり、と。
床を見た人から、順に動けなくなったそうです。
気づいた瞬間、足が抜けなくなる。
埃の上の輪に、いつの間にか自分の足跡が混じっている。
混じったら最後だ……そんなふうにしか思えなかったそうです。境界が“こちら側”になるように見えたといいます。
目を逸らした人もいたそうです。床を見ない。見なければ、まだ輪の外だと信じたかったのでしょう。
けれど、見ないことで守られるものは、そこにはなかったそうです。
空席の拍手が止んだそうです。
代わりに、硬貨が落ちる音がしたといいます。からん、からん、と。
対戦台の前に、硬貨が積み上がっていったそうです。誰も入れていないのに、硬貨だけが増えていく。まるで「次はおまえだ」と言うように……。
店主がかすれた声で言ったそうです。「閉める。電源を落とす」
店主はブレーカーのある裏へ走ったそうです。走れたのは、床を見なかったからなのかもしれません。
ぱちん、と音がして、店内の明かりが落ちたそうです。
画面が暗くなり、音が消え、空席の椅子も止まったといいます。
静寂が来たそうです。
救いのような静寂だった……と。
――それでも、年上の男性だけは動かなかったそうです。
暗闇の中で、彼はまだ椅子に座っていたといいます。呼吸だけが聞こえる。誰かがスマホのライトを点け、その光が彼の手元を照らしたそうです。
棒を握る彼の右手の上に、もう一つの手があったそうです。
皮膚の色が違う。光を反射しない。指が細い。爪が長い。
その手は、棒を“離さない”ように見えたといいます。
そして、光に照らされた床には、輪が残っていたそうです。
裸足の足跡の輪。
輪の内側には、椅子の脚の跡。
輪の外側へ、一本だけ伸びる足跡の列。
その列の先は、私たちの足元まで来ていたそうです。
誰かが息を呑んだそうです。
足跡の列の終点に、硬貨が一枚、置かれていたといいます。
表が上だったそうです。古い年号が刻まれていた。
その年号を見て、店主が震える声で言ったそうです。
「……あの年だ」
三十五年前の硬貨が、いま、私たちの足元にある……。
年上の男性が、ゆっくり顔を上げたそうです。目が合った。
彼の目は、もう彼の目ではなかったそうです。画面の明かりのない暗闇でも、妙に“こちらを映して”いたといいます。そこに、小さく誰かの姿が映っていたそうです。――いや、違う。映っているのは、一人だけではなかった。背後にも、誰かが立っていたように見えた……そうです。
振り返れなかったそうです。
振り返ったら、輪が完成してしまう気がした……と。
年上の男性の口が動いたそうです。声は出ない。唇だけが形を作ったといいます。
「次」
その瞬間、手首が熱くなったそうです。
見えない指が、五本、きつく巻きつく感触。
逃げようとしても、指先が勝手に“覚えていない動き”を始める。棒を回す練習のような、円。円。円。
その夜、その人はゲームに触っていなかったそうです。
硬貨も入れていない。
ただ見ていただけだったといいます。
なのに家へ帰ってから、蛇口を捻る時、ドアノブを回す時、歯磨き粉のキャップを回す時、手首が勝手に“ひと回転”するようになったそうです。止められない。誰かの癖が、骨に馴染んでいくようだった……と。
翌朝、掌に丸い跡があったそうです。
五つの小さな円が、二列。
ボタンの並びのように……。
それ以来、その人はゲームセンターの入口で立ち止まってしまうそうです。
中の音が聞こえるたびに、こう思うのだそうです。
あの台は、遊び相手を探しているのではない。
“手”を探している。
一度握ったら、離せない手を。
そして、もし、あのゲームを「試しに一回」と思ったなら――
床を見ないでほしいそうです。
空席を笑わないでほしいそうです。
硬貨が足元に落ちた時、拾わないでほしい……と。
拾った瞬間から、指はもう自分のものではなくなるのかもしれません。
三十五年分の入力が、手首を回し始めるそうです。
その回転が止まるのは、次の席が埋まった時だけ……。
その先を確かめた人がいるのかどうかは、もう誰も話さないそうです……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
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