総合病院の裏に、地図に載らないみたいな路地がある。
人がすれ違うのも難しい幅で、壁と壁の間に湿気だけが溜まっている。隣は幼稚園の裏手、その先は古民家の背中。住んでいるのか分からない窓が並び、昼でも薄暗い。
その路地から見上げる病棟は、打ちっぱなしのコンクリートで、冷えた箱のようだった。
空は明るいのに、壁は光を返さない。窓だけが、空の色を薄く貼りつけたみたいに四角く浮いている。
初めて気づいたのは、窓の隅の赤だった。
小さな赤い三角が、いくつかの窓にだけ貼られている。工事の目印か、注意喚起か。病院ならよくある、と、その時は思った。
でも一つ、どうしても目が離れない窓があった。
上部のフィルムが破れて、白い布みたいにめくれあがっている。裂けたところの奥に、人影が見えていた。
立っている。動かない。こちらを見ているのかどうかも分からないのに、視線だけが引っかかる。
裏路地は静かで、音が少ないぶん、自分の呼吸がやけに大きい。
吐いた息が湿気に混じって、すぐ消えた。消毒液の匂いと、古い木の黴の匂いが、同じ高さで漂っている。
私は用事があってその路地に入っただけだった。設備の点検で、病棟の裏手の排気口を確認しに来ただけだ。
二十分もいれば終わるはずの仕事なのに、あの窓の前で時間が止まった。
赤い三角が、ひとつ、窓の内側で光った気がした。
貼り紙の赤ではない。もっと濡れた赤。血が乾いたあとに残る、錆の赤に近い。
次の瞬間、破れたフィルムがわずかに揺れた。風は吹いていない。路地は行き止まりで、空気は重い。
それなのに、あの白い裂け目だけが、まるで内側から息を吐いたみたいにふわりと動いた。
人影が、少しだけ近づいた。
そう見えた。距離が詰まったのではなく、「窓の向こうの奥行き」が縮んだような近づき方だった。
病棟の窓は高い。あんな位置に、立ったまま張りつくような影が見えるのは変だ。ベッド柵やカーテンの影なら、もっと崩れるはずだ。
私は目を逸らした。
逸らした瞬間、背中がぞくりと冷えた。誰かが、路地の入口側から来た気配がしたのに、足音がない。
振り返っても、誰もいない。古民家の窓も、幼稚園の裏も、ただ湿気が漂っているだけだった。
もう一度、病棟の窓を見る。
赤い三角が増えていた。
さっきまで三角がなかった隣の窓に、同じ形の赤がひとつ。
その下の階にも、ひとつ。
点々ではなく、縦に並びはじめている。まるで、上から下へ降りるための目印みたいに。
私は笑ってごまかそうとした。見間違いだ、と。
けれど次に瞬きをした瞬間、破れたフィルムの裂け目が、少しだけ大きくなっていた。
白い裂け目の輪郭が、指で引き裂いたみたいに新しい。紙ではない。フィルムが裂けるときの、粘るような線だ。
人影が、裂け目のすぐ奥に立っていた。
顔は見えない。けれど輪郭だけが、やけに「病人の立ち方」だった。骨だけで立っているみたいな、力の抜けた直立。
その胸のあたりに、赤い三角がある。窓の隅の印と同じ形が、人影の胸でゆっくりと上下している。呼吸の印みたいに。
喉が渇いた。
なのに唾を飲む音が、路地の壁に吸われて消えた。音が消える場所に立っていると、自分が薄くなる。
フィルムの裂け目が、もう一度揺れた。
今度は揺れではなく、めくれだった。内側から、ゆっくり、爪で剥がすみたいに。
白い裂け目の端が、こちらへ向いて開いた。窓が口を開けたみたいに見えた。
その瞬間、足元のコンクリートに、赤いものが落ちた。
紙切れのようで、シールのようで、でも手に取ると湿っていた。三角形の欠片。
裏は粘着ではない。薄い膜が、指にぺたりと貼りつく。冷たいのに、触ったところだけじわりと温かくなる。
怖くて捨てた。捨てたのに、捨てた音がしない。
目の前の路地の湿気が、その三角を飲み込んで、床に跡を残さなかった。
私は作業を放り出して路地を出た。
背中のどこかに、まだあの窓が貼りついている。見上げていないのに、見上げている感覚だけが続く。
その夜、家の窓ガラスが曇った。
指で拭うと、曇りの中に赤い三角が浮かんだ。外側ではない。ガラスの内側。フィルムの裏。
こすっても消えない。水で拭いても残る。赤い三角だけが、ぴたりと居座っている。
そして、もっと怖いことに気づいた。
部屋の明かりをつけても、私の影がいつもの形にならない。
壁に映る影の胸のあたりが、三角に欠けている。欠けた部分だけ、壁が明るいまま残る。
そこだけが、影ではなく「窓」になっているみたいに。
翌朝、私は病院の裏路地へは戻らなかった。
戻れなかった、と言った方が正しい。足が向かない。近づくだけで胸の欠けが痛む。
けれど夕方、カーテンを閉めた窓ガラスに、うっすらと人影が映る。
私ではない。背筋の抜けた直立。胸に、小さな赤い三角。
映り込みのはずなのに、そいつだけが、窓の向こう側に立っている。
そして、こちらを見ないまま、病棟へ帰るみたいに、ゆっくりと遠ざかっていく。
私の影だけが、いまもあの病棟に入院しているのかもしれない。
赤い三角は、退院の印ではなく――病棟の裏口へ「移す」ための印なのだと、分かってしまった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

