新築分譲の現場は、いつだって「同じ匂い」がする。乾いた土、鉄の粉、ブルーシートのビニール臭。四角い基礎が規則正しく並び、赤と青の管が露出したまま、コンクリートの箱の中を這っている。
その日は珍しく、足場に黒い布が何本も吊られていた。風除けにしては細長く、濡れた髪みたいに垂れている。
現場監督の補佐として入った僕が最初に気づいた違和感は、基礎の「湿り」だった。雨は降っていないのに、いくつかの枠の底だけがぬめっと濡れている。コンクリート面が水を吸って暗くなり、触ると冷たい。
配管の止水は確認済みだ。漏れているはずがない。けれど濡れている枠のそばでは、耳の奥で“とく、とく”と脈みたいな音がした。
職人のひとりが、ブルーシートの脇を指さして言った。
「あの辺、昨日から誰か立ってる気がするんすよ」
視線の先には、足場の影と資材の影が重なって、ひどく人の形に見える空白があった。もちろん、誰もいない。
それでも、その“空白”はずっとそこにいるように見えた。立ち去るのではなく、そこに“型取られている”ような。
夕方、型枠の点検で基礎の中を歩いた。コンクリートの箱はどれも空っぽのはずなのに、一本だけ、空気が違った。
枠の角に立つと、底から見上げる気配がある。見上げられているのに、底は平らで、何もない。
次の瞬間、赤と青の管が、微かに震えた。管の表面が汗をかくみたいに艶を帯び、音が近くなった。“とく、とく”が、“とん、とん”に変わる。
叩かれている。内側から。
慌てて上に出ると、足場の黒い布が同時に揺れた。風が吹いたわけじゃない。布だけが、縄みたいにねじれて、ほどけて、また垂れ下がる。
その瞬間、現場のどこかでコーンが倒れた音がした。振り向いても赤いコーンは真っ直ぐ立っている。倒れた音だけが、遅れて届いたみたいに残った。
夜、事務所で図面を見返した。基礎の配置は規則通りで、管の引き回しも問題ない。
ただ、ある区画だけ、注釈が消えていた。修正履歴では、そこだけが何度も書き換わっている。名前のない部屋、用途未定のスペース。
現場では、ちょうどその位置の枠だけがいつも湿っていた。
翌朝、僕が最初に現場へ着くと、足場の黒い布が増えていた。数が合わない。昨日吊られていなかった場所にも、濡れた帯が垂れている。
職長は何食わぬ顔で言った。
「作法だよ。固める前に、外へ出るもんを外へ出しとく」
“外へ出るもん”が、何を指すのか。訊く前に、ミキサー車が入ってきた。
打設1が始まると、湿っていた枠から音が消えた。代わりに、コンクリートが流れ込む音が妙に遅い。どろり、と落ちるはずのそれが、粘って、ためらって、最後に“吸い込まれる”。
枠の底が、ふくらんだ。
目の錯覚じゃない。まだ固まっていない灰色の面が、下から押し上げられて、丸く盛り上がる。盛り上がりは、掌の形になって、指の節が浮いて、爪の跡が並んだ。
そして、掌がゆっくりと“ずれる”。
まるで、枠の内側を歩いているみたいに。
叫ぶより先に、足場がきしんだ。黒い布が一斉に垂れ下がり、同じ方向を向いて止まる。髪が揃ってこちらを見た、そんな感じがした。
職長が、コンクリートの上に木槌を落とした。
“こん”
木槌の音が一拍遅れて返ってきた。“こん”。さらにもう一拍遅れて、“こん”。
誰かが、底のどこかで、同じ音を真似した。
打設を止めた。職人たちは口をつぐみ、誰も湿った枠の中を見ようとしなかった。
僕だけが覗いた。
掌の跡はもうなく、表面は滑らかになっていた。代わりに、まだ乾いていない灰色の面に、四角い“へこみ”が残っている。人が横たわった輪郭と、ほぼ同じ大きさの、浅い型。
型枠の四隅から出ている鉄筋が、妙に“釘”に見えた。
その晩、僕はスマホで現場を撮った。記録として残しておきたかった。
翌日、写真を見返して、背中が冷えた。
足場の前、ブルーシートの近くに、作業員がひとり写っている。昨日もいた人影の位置だ。けれど顔が、塗りつぶしたみたいに黒い。黒い布と同じ黒で、輪郭だけが辛うじて残っている。
拡大すると、顔の黒が布の黒へ滲んで、足場の縦パイプに吸い込まれていた。
時間情報を見ると、撮った時刻が三つ並んでいた。すべて同じ写真で、時刻だけが違う。しかも、そのどれもが「打設を始める前」の時刻だった。
現場へ駆け戻ると、湿っていた枠は乾いていた。
代わりに、別の枠が濡れている。配置が一つずつ、ずれている。昨日の“へこみ”はどこにもなく、すべてが最初からやり直されたみたいに整っていた。
赤と青の管だけが、同じ場所で同じ角度のまま、こちらを向いていた。
“とん、とん”
音がまた始まる。
今度は、数が合う。基礎の数だけ、枠の底から叩く音がする。
職長は言った。
「固める場所が違っただけだ。こういう土地は、型が勝手にずれる」
僕はその言葉を、ずっと反芻している。
型がずれる。固める場所が違う。
つまり、ここでは“誰かの形”が、毎日少しずつ場所を変えながら、必ずどこかに固め直されている。
完成した頃、その分譲地の住人から、奇妙な苦情が増えた。床下から“配管の脈”みたいな音がする。家の位置によって、夜だけ基礎が冷える。ユニットバスの排水が、赤と青の管の色に見える。
そして、ある家だけは、引っ越し初日に床下点検口を開けたまま閉められなくなったらしい。
“誰かが内側から押さえている”からだと。
僕はもう、その現場には戻らない。
けれど、あの黒い布が風に揺れるたび、思い出す。
足場は家を建てるための骨組みじゃなかった。
外へ出るものを外へ出し、内へ戻るものを内へ戻すための、檻だったのだ。
- 打設(だせつ)とは、建築の基礎となる生コンクリート(固まっていないコンクリート)を枠の中に流しこむことである。「打設」という言葉は、生コンクリートを高密度に充填するため、竹の棒などで入念に突いたり叩いたりして、空気や水を追い出したことに由来する。「打ち込み」と言われることもある。現在は、竹の棒などで作業することは少なく、圧送技術やバイブレータなど新しい技術や機器が登場している。
打設は、基礎の底盤部分と立ち上がり部分の二回に分けて行う「二度打ち」が一般的である。(建設・設備求人データベース) ↩︎
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


