大晦日の昼だった。空は澄んでいるのに、吐く息だけが薄く重い。神社の鳥居をくぐると、赤い柱の艶が冬の光を弾いて、白い紙垂がぱちぱちと乾いた音を立てていた。
参道の真ん中に、茅の輪が据えられている。大祓と初詣、その両方のための準備中なのだろう。輪の向こうには拝殿があり、石灯籠は影を長く伸ばしていた。誰かが縄を結び直していて、誰かが掃き清めていて、誰かが頭を下げている。年の終わりにだけ現れる、静かな忙しさ。
私はその輪を見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。ここに来れば、今年がちゃんと終わる。終わったら、全部がきれいになる。そう思える場所があることが、ありがたかった。
紙垂が一枚、風でもないのに揺れた。揺れ方が妙に、呼吸に似ていた。私は思わず手を伸ばした。指先が白に触れた気がして、薄い紙がわずかに角度を変えた。
あれ、と声が出そうになった。誰もこちらを見ない。手を引っ込めると、紙垂はまた無音に戻る。
参道の石の継ぎ目に、小さな松葉と砂がたまっていた。掃き寄せておこうと思った。だが、箒はない。私は素手で集めるような仕草をしてみた。砂は動かない。指が通り抜ける。皮膚の感触が、遠い。
笑ってしまった。おかしいな、今日は風が冷たいはずなのに、手が冷たくならない。
それでも、できることはあるのだと知ったのは、しめ縄に結ばれた小さな紙の欠片だった。紙垂とは別の、ちぎれた白。誰かが落として、気づかず踏みつける前に拾いたかった。
私はしゃがみ、つまむ。指がすり抜けた。もう一度。今度は、白がふわりと浮いた。私の手のひらに乗ったわけではない。風もないのに、そこだけ時間がゆるんだみたいに、白が軽く舞って、しめ縄の近くへ寄っていく。
近くにいた年配の男性が、ふと足を止めた。目が、私のいるあたりを通り過ぎて、白い欠片へ向いた。彼は黙ってそれをつまみ、しめ縄の飾りへ差し込んだ。結び目が整う。
「助かったな」
男性は誰にともなく呟いた。声は私に向けられてはいないのに、胸のどこかに温かいものが落ちた。私は、頷いてしまった。
準備は続く。輪は真新しい藁の匂いを放ち、参道には人が増えたり減ったりした。小さな子どもが輪の前で立ち止まり、作法を知らないまま輪を見上げている。母親らしい人が、スマホの画面を見ながら困った顔をした。
私は、輪の前に立って、そっと足を運ぶ真似をした。左、右、左。くぐる軌跡をなぞる。輪の向こうに道ができるように、ただ“通り方”だけを置いていく。
子どもが、私の動きをまねた。たどたどしく、でも真剣に。母親はそれを見て、ほっと笑った。二人は輪をくぐり、拝殿へ向かっていった。子どもは一度だけ振り返り、何もない場所へ小さく頭を下げた。
その瞬間、紙垂が一斉に揺れた。風は吹いていないのに。乾いた音が重なって、まるで拍手みたいに聞こえた。
私は、満たされた気持ちになった。今日ここに来た用事は、きっとこれだった。誰かの年を、ちゃんと終わらせる手伝い。大晦日らしい、ささやかな役目。
日が傾きはじめた。影はさらに長くなり、輪の中は、昼なのに少し暗い。私は最後に、自分もくぐってから帰ろうと思った。終わりに触れて、区切りをもらって、家へ戻る。そうすれば、明日は新年だ。
輪の前に立つ。冷たいはずの空気が、ここだけぬるい。藁が、肌に触れそうで触れない距離で待っている。
一歩、踏み出した。
砂利の音がしない。石の冷たさが足裏に届かない。息が白くならない。
輪の中を覗いた途端、暗さの奥に、もう一つの景色が重なった。
家の仏壇。黒い縁の遺影。線香の煙。私の名前。丸で囲まれた日付。そこに、今年の途中で止まっている“私”がいた。
思い出した。私は今年の夏、踏切で——いや、考えなくていい。考えた瞬間、輪の内側が深くなり、足が沈む。藁が擦れる音が遅れて聞こえた。
私は、ここへ“帰って”きたのではなかった。ここは、行き先を決める場所だった。大祓の準備が整うほど、この境目ははっきりする。初詣のための賑わいが増えるほど、取り残されたものは目立つ。
紙垂が、私の呼吸の代わりに揺れる。茅の輪が、私の年を丸く抱えている。拝殿の奥で誰かが鈴を鳴らした。音が遠いのに、胸の内側だけ震えた。
私は笑った。さっきまで、平和に片付いたと思っていた。役目を果たして、帰れると思っていた。だけど違う。帰る場所は、もう“あちら”にしかない。
それでも、悪くない気がした。子どもが頭を下げた光景が、まだ温かい。誰かの年の終わりに、私は少しだけ混ざれた。忘れられたままではなかった。
輪の中へ、もう一歩。
赤い鳥居の艶が、少しずつ遠ざかる。石灯籠の影が、私の影と重ならないまま伸びていく。藁の匂いが、冬の光にほどける。
私は境目の真ん中で、軽く息を吸う真似をした。
あの世とやらにようやく行けるかな。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



