あの路地に面した小さなギャラリーで手伝うようになってから、右手の工事現場を覆う白い養生シートが、どうにも気になっていた。
風のある日は普通にばたつく。おかしいのは、むしろ風のない曇りの日だった。
最初に見たのは、白い買い物袋を提げた女の人が奥へ抜けていった直後だ。人が通り過ぎて三秒ほど遅れてから、シートの中ほどが肩の高さでふくらみ、そのすぐ下が少し引かれ、さらに遅れて袋の角みたいな出っ張りがひとつ、踵の位置で小さく跳ねた。まるで、いま通った人の通り方だけを、布の向こうで誰かがなぞっているみたいだった。
最初は見間違いだと思った。
けれど、その遅れた“通行”は、次の日も、その次の日も起きた。老人が通れば、ゆっくり二度に分けてふくらむ。学生が通れば、歩幅の細かい揺れが出る。布の向こうには足場の鉄パイプがあるだけで、人が横向きになっても入れない幅しかない。現場の職人に聞くと、裏は壁だよ、と笑われた。
一週間ほどして、今度は痕が残りはじめた。
シートの向かいに立つ電柱の側面に、白い粉をこすりつけたような擦れが付くようになったのだ。肩の高さに一本、肘の高さに一本、低いところに半月形の汚れがひとつ。毎朝増えては、雨でもないのに薄く流れ、また翌日には少し位置を変えて現れる。ギャラリーの看板の角にも、ときどき乾いた白い筋が残った。人が触れるには不自然な、路地の真ん中寄りの位置に。
閉店後、店の灯りを落として、私は一度だけ奥で待った。
誰も通らない路地は、電線のたるみまで見えるほど静かだった。しばらくして、駅の方から会社員が一人、足早に抜けていく。三秒遅れて、白幕が同じ歩調でふくらんだ。肩、脇、鞄、踵。
そのあとだった。
もう誰もいないのに、同じふくらみが、もう一度だけ始まった。
今度は路地の奥からではなく、私のすぐ横、店先の位置からだった。白幕の面が、誰かの胸骨みたいに細く持ち上がり、私の立つところへ半歩ずつ寄ってくる。私は動けなかった。逃げれば、それも覚えられる気がしたからだ。ふくらみは、私の肩の高さまで来て止まり、そこだけ布が内側から長く押された。耳を澄ますと、触れてもいないはずの看板が、ごく小さく鳴った。
翌朝、工事は一区切りで、白幕は外されていた。
現れたのは鉄パイプと板だけの、どう見ても人の通れない隙間だった。だが、壁際の粉っぽい下地には、横向きの何かが何度も擦れたような筋が続いていた。肩の位置に長い線、鞄の角に似た四角い欠け、足元には半月形の黒い汚れ。幅は人ひとり分より、少しだけ狭い。無理に身体を薄くして通ろうとしたものの痕に見えた。
それで終わると思っていた。
だが工事が終わってフェンスだけになった今も、曇った日の夕方、その路地を最後に通った人の右肩には、帰るころ白い粉が乗っている。壁に触れる場所なんて、もうない。
この前、店を閉めて上着を脱いだとき、私の右肩にも乾いた擦れが一本付いていた。払うと落ちたが、その下の布地には、私の肩線よりほんの少し内側に、もう一本、細い擦れ跡が並んでいた。誰かが私より狭い幅で、ずっと同じ上着の中を通ろうとしているみたいに。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

