管理会社の巡回で、私は毎週この消火器を見ていた。白い外壁に半透明の赤いカバー、脇には電柱、足元には笹。どこにでもある設備なのに、ここだけは見回り表に書かれていない確認が増えていった。閉じたはずのカバーが、翌朝になると必ず少し開いているのだ。
最初は風だと思った。だが風なら左右ばらばらに暴れるはずなのに、このカバーは違った。左はいつも同じくらい、右はそれより少しだけ大きく、決まった角度まで開いて止まる。留め具は壊れていない。蝶番も正常だった。強く押し込んで閉めても、翌朝にはまた同じ開き方に戻っている。
試しに、扉の縁と壁にごく小さな鉛筆の印を打った。翌朝、その印ぴったりの位置まで、赤い扉は開いていた。偶然とは思えないほど正確だった。しかも黄色い安全ピンの輪が、封を切っていないのに、日ごとにほんの少しずつ向きを変える。誰かが触っているなら痕が残るはずだが、指紋も傷も見つからない。その代わり、足元の笹だけが二枚の扉の軌道に合わせたように、朝ごと外へ押し分けられていた。
一階の住人から、変な相談も入るようになった。「この壁際だけ、音が薄い」と言うのだ。立ち話をしていても、その前に立つと相手の語尾だけが聞き取りにくくなる。換気扇の音も、自転車のベルも、そこを横切る瞬間だけ遠くなる。耳鳴りや気のせいで片づけられる程度の違和感だったが、報告は一人ではなかった。
気味が悪くなって、私は巡回のあと一度だけ日没まで残った。通りの車が減り、電柱の影が赤いカバーの中央を横切ったころ、小さな音がした。金属でもガラスでもない、硬いものが乾いた粘膜に触れたような、ごく短い音だった。次の瞬間、左右の扉がひとりでに数ミリだけ動いた。勢いよく開くのではない。内側から、息を逃がすために隙間を作るような開き方だった。
私はしゃがみこんで、赤い扉のあいだから中を見た。消火器は定位置に収まっている。ノズルもホースも変わらない。だが、内側の赤い面にだけ、楕円形の薄い曇りが浮いていた。指でなぞったような筋ではない。口元を近づけて、ひと息だけ置いていったような、小さな曇りだった。大きくても掌に隠れるほどの、妙に“生きた”形をしていた。
ぞっとして扉を押し閉めたとき、手のひらにわずかな押し返しがあった。バネの反発ではない。二枚の扉のあいだに、薄い何かがまだ残っていて、完全には潰れたがらない感触だった。同時に、足元の笹が音もなく一斉に倒れた。風はなかった。電柱の陰も動いていない。なのに、そこだけ何かが下へ抜けていったみたいに、葉先が遅れて震えた。
その晩、非常ベルが一度だけ鳴った。火元表示もなく、受信盤にも異常は出ない。ただ、翌朝またあの場所へ行くと、カバーはいつもの角度まで開いていた。赤い扉の内側には、昨夜見たのと同じ楕円が二つに増えていた。しかも壁には、ちょうど扉の間に挟まる位置だけ、細い縦筋が二本、白く乾いていた。雨垂れでも手垢でもない。壁のざらつきの上を、湿ったものがゆっくり下りて、途中で拭い取られたような筋だった。
それから私は、この設備を閉めても「正しく閉まった」とは書かなくなった。見回り表には、ただ角度だけを書く。左何センチ、右何センチ。数字は週ごとに少しずつ広がっている。昨日測った隙間は、ちょうど人の口がひとつ入るくらいだった。来週それがもう少し広がったら、あの赤いカバーは消火器を守るためではなく、壁の中の何かに、呼吸の形だけ教えていることになる。朝になるたび、足元の笹がきれいに外へ開いているのは、そのたび何かが出てきて、また戻っているからだと思う。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

