団地の裏の藪は、手入れがされているはずなのに、そこだけ季節が遅れていた。
青い葉の下に、枯れた草が厚く折り重なり、誰も通らないくせに踏み跡だけがある。私は犬の散歩のついでに、その踏み跡の先で赤い板を見つけた。
「車両進入禁止(自転車を除く)14:00〜18:00」
倒れた看板は錆びて、右端が欠けている。禁止の文は妙に新しく、白い文字だけが浮いて見えた。団地の自治会が捨てたのだろう、と軽く考えて、私は看板を藪の外へ引きずり出した。
その瞬間、鉄が“温かい”と感じた。
日なたでもないのに、指の腹にぬめる熱が残った。錆の粉が、掌の皮膚へ吸い込まれるみたいに消え、代わりに赤い塗装だけがかさりと剥がれた。
帰宅して手を洗うと、水が一瞬だけ茶色く濁った。
排水口へ流れたはずの錆が、なぜか手首の内側に点々と残っている。点は小さな文字の形だった。よく見れば、括弧のような、波線のような、数字のような。
次の日の午後二時ちょうど、団地の中庭が妙に静かになった。
子どもの声が消え、遠くの車道の音も薄くなる。私はベランダへ出て、昨日の看板を思い出した。あれは“車両”の話だ。歩行者には関係ない。そう言い聞かせて藪を見た。
藪の中で、何かがゆっくり動いていた。
葉が揺れているのに、風の気配がない。枝が押し分けられる音もしない。ただ、影だけが移動している。影は、低く、長く、まるで車の下腹のように地面を舐めた。
午後二時を過ぎて、四時を回る頃には、藪の縁に“タイヤの跡”が浮かび始めた。
土が凹んだわけではない。枯れ草が、そこだけ押しつぶされたように色を変え、筋だけが残る。踏み跡ではない。車輪が通ったような、二本の平行線。
私は自治会の掲示板に、藪の中の不法投棄を報告した。
翌日、清掃の人が二人来て、藪の縁へロープを張った。団地は小綺麗で、新しい決まりごとが好きだ。『立入禁止』の札が下がり、私の胸は少しだけ軽くなった。
その日の午後二時。
静けさは、前日より深くなった。ロープの向こうの空気が、薄い膜で区切られているみたいに見えた。膜の内側だけ色が鈍く、葉の緑が古くなる。
そして、看板が戻っていた。
藪の中ではなく、ロープの内側の地面に、きちんと立てかけられている。倒れていたはずの赤い板が、まるで最初からそこにあったように。
私は近づいて、文字を確かめた。
「車両進入禁止(自転車を除く)14:00〜18:00」
表記は同じ。けれど、白い数字の縁に、極細い茶色の滲みがあった。錆が、数字に触れている。昨日はそんな滲みはなかったのに。
午後三時半。
ロープの内側で、枯れ草が起き上がった。
一本、また一本と、倒れていたはずの茎が、無音で立つ。誰かが通った跡を“消す”みたいに、平行線がうすくなっていく。代わりに、別の線が現れる。より太く、よりまっすぐな二本線。今度は、団地の遊歩道へ向かって伸びていた。
私は見ないふりをした。
関われば面倒だ。そう思った。けれど、手首の内側の錆の点が、午後四時を過ぎる頃から熱を持ち始めた。点が増えている。増え方が、文字になっていく。
「1」「4」「:」「0」「0」
自分の皮膚の上に、時刻が浮かぶ。まるで、看板の数字が移ってくるみたいに。
午後五時四十分。
藪の縁に、初めて“車両”が見えた。
見えた、というのはおかしい。形は曖昧で、輪郭は枯れ草の色をしている。けれど、それが進むたびに草が古くなり、葉が萎れていく。影だけが確かで、低い影がロープを越え、遊歩道へ滑り出した。
犬が吠えた。
吠え声だけが、妙に遅れて届いた。鳴いた口の動きと声が合っていない。団地の時計も、秒針の音だけが消えていた。
私は咄嗟に、ロープを跨いだ。
止めなきゃ、と思ったのかもしれない。ロープの向こうへ足を入れた瞬間、空気の膜が破れ、冷たい水の中へ頭から潜ったような圧が来た。
次に気づいたとき、私は藪の中にいた。
枯れ草が顔に触れている。赤い看板はすぐ目の前だ。白い文字が、暗闇でも読めるほどに明るい。
「車両進入禁止(自転車を除く)14:00〜18:00」
違う。最後が違う。
「14:00〜18:00(人間を除く)」
文字は声にならないのに、意味だけが胸に落ちた。
“自転車を除く”の括弧の内側が、私の視界の端でねじれた。白い塗料が濡れた皮のように動き、錆がその下から押し上がる。欠けた右端から、赤い塗膜の破片がぽろぽろ落ち、その破片が、私の手首の錆の点へ吸い込まれていく。
私は逃げようとして、立ち上がった。
立ったのに、足元の枯れ草が、私の足を“踏み固めた”。動けない。土ではなく、時間が固まっている。午後二時から六時の四時間が、藪の中で折り畳まれて、私の足首へ巻きついている。
看板の数字が、かすかに滲んだ。
「14:00〜18:00」
その「18:00」の最後のゼロが、ゆっくりと欠けていく。欠けた破片が、私の爪の間へ入り込んだ。鉄の味がした。舌の裏が、錆の粉でざらついた。
午後六時。
音が戻った。
遠くの車道、団地の子どもの笑い声、犬の呼吸。膜が元に戻り、私はロープの外側に立っていた。跨いだ記憶も、藪の中の圧も、全部、夢だったと言われれば信じられるくらいに。
ただ、手首だけが違った。
錆の点が、薄い数字の列になって残っている。皮膚の下に“時刻表”が埋め込まれたみたいに、消えない。
それから数日、午後二時になると、私は少しずつ“軽く”なった。
体重が減るのではない。影が薄くなる。写真を撮ると、私だけ逆光みたいに白く飛ぶ。鏡を見ると、輪郭が遅れて映る。団地の誰かが挨拶しても、声が私を追い越していく。
自治会が藪の整備を決めたのは、翌週だった。
業者が入るというので、私はこっそり藪を覗きに行った。例の看板は、また倒れて草に埋もれている。表記は元通りだ。
「車両進入禁止(自転車を除く)14:00〜18:00」
けれど、錆の欠片が、白い数字の上にだけ並んでいた。
まるで、何かが指で押さえた跡みたいに、数字が湿っている。私は息を呑んで、その数字を携帯で撮った。
写真を拡大すると、滲みの中に、細い線が見えた。
二本の平行線。車輪の跡のような線。線は数字のゼロの中へ入り、ゼロの穴の奥で、誰かの目の形になっていた。
午後二時から六時の間、藪は“車両”を通す。
そして、そこに入った人間は、少しずつ“除かれて”いく。
団地の掲示板に、新しい注意書きが貼られたのは、その翌日だ。
『14:00〜18:00は藪に近づかないでください』
理由の欄だけが、空白のまま。
私だけが、理由を知っている。
理由を知っているのに、今日も私は午後二時が近づくと、勝手に藪の方へ足が向く。
足首に巻きついた四時間が、まだ解けていないからだ。
そしてもう一つ、確かな痕跡がある。
私の手首の内側に刻まれた時刻は、毎日少しずつ変わっていく。
「14:00〜18:00」
その終わりが、いつか「18:00」ではなくなるのだと、皮膚の下の数字が教えている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

