境界の窓

写真怪談

その車両のいちばん前、客室と乗務員室を隔てる白い仕切りは、病院の壁みたいに清潔で、ところどころに小さな紫の模様が散っていた。花にも星にも見える点々が、汚れでも傷でもない顔でそこに残っている。

朝の混雑が引いた時間帯だった。私は運転台の背中が覗ける窓の近くに立って、何となく前方を眺めていた。左の窓には、帽子のつばが丸く影を落とす乗務員の後ろ姿。右の窓には線路と架線、遠くの信号。それにガラス面へ貼り付くように、縦に大きく「乗務員室」と白い文字が浮いている。

文字は、見慣れた“境界”の印だった。ここから先はあなたの場所じゃない、と無言で告げる札。右端には小さな札もあって、赤い字で「関係者以外立入禁止」とある。誰もが従うための、ただの注意書き。いつもなら、そこで思考は止まる。

その日は止まらなかった。

駅を一つ過ぎたあたりで、右の窓の「員」という字の中に、黒い点がひとつ増えているのに気づいた。インクの剥がれか、汚れか。そう思って瞬きをした瞬間、点は消え、代わりに「室」の角が、ほんのわずかに欠けた。

欠け方がいやに“書き損じ”に似ていた。印刷の擦れではなく、誰かが書いた字が、途中で筆を止めたみたいに。

また瞬きをする。今度は「務」の払いが伸びて、線路の向こうの架線柱へ絡みついたように見えた。文字と外の景色が、ピタリと噛み合ってしまう。ガラスの上の字が、窓の外へ手を伸ばしている。

気づけば私は、右の窓だけを見続けていた。見るほどに、文字の輪郭が少しずつ変わる。増える、欠ける、ずれる。そんなはずがないのに、“変化の仕方”が、まるで誰かがこちらを試しているようだった。

左の窓へ視線を逃がした。帽子の乗務員は、相変わらず背中を向け、動かない。運転台の機器のランプだけが、真面目に点滅している。

次の駅で列車が停まった。ブレーキが鳴り、車体が小さく揺れる。乗務員が立ち上がる気配がして、私は反射的に左の窓を見る。帽子が、ふっと上に浮いた。

帽子だけが。

首も肩も一緒に上がるはずなのに、つばの黒い弧だけが、ガラスの中をすべるみたいに持ち上がり、位置をずらした。帽子の下にあるべき頭は、そこに追いついてこなかった。

私は息を呑んだ。驚いたのは帽子が浮いたことじゃない。浮いた帽子の“下”に、もう一つの帽子の影が、確かに重なって見えたことだ。二枚のつば。二人分の輪郭。けれど座席にいる背中は一つしかない。

ドアが開き、乗客が数人降りた。車内の空気が入れ替わる。私はもう一度右の窓を見る。

「乗務員室」の白い字が、さっきより濃い。濃いというより、ガラスの内側から滲み出ている。透明な板の中に、別の層があるみたいに、文字が奥へ沈んでいく。

沈んだ先で、白い字が“骨”のように見えた。

字の間、透明なはずの部分が、黒く詰まり始める。外の線路やホームが見えなくなるほどではない。だが、黒は確実に形を持っていた。縦書きの四文字の隙間を縫い、組み上がり、最後に「員」の中へ、あの黒い点を置く。

点は眼だった。

眼がこちらを見た瞬間、右端の札の赤い字が、音もなく裏返った。鏡文字の「関係者以外立入禁止」。反転した文字が、私の側へ向いている。禁止する相手が、私ではなく――中にいる“それ”に変わったように見えた。

列車が発車する。速度が上がる。外の景色が流れる。なのに右の窓の眼だけは流れない。ガラスに貼りつき、私の動きに合わせて、焦点を合わせてくる。

怖くて離れようとした。足が一歩引けない。紫の小さな模様が、仕切りの壁のあちこちで視界に入る。点々が、さっきまでの可愛げを失って、皮膚の毛穴みたいに見えた。そこから何かが滲み出す気配。

私はようやく視線を切って、車内の他の場所へ目を向けた。吊り革、広告、床。普通だ。人もいる。誰も怯えていない。

安心しかけた瞬間、視界の端に白い縦線が残っているのに気づいた。目を動かしても、縦線がついてくる。残像だと自分に言い聞かせた。だが残像なら、四本の線が揃っている必要はない。

「乗」「務」「員」「室」

文字が、私の目の内側に貼りついている。

次の駅で降りた。ホームへ出ると風が冷たく、現実が戻ってきた気がした。振り返って車両を見る。窓の文字はいつもの通りに白く、何の変化もない。さっきの眼もない。左の窓の帽子も、ただの後ろ姿だった。

家に帰って、手を洗った。蛇口の水音が、やけに遠く聞こえた。鏡に映る自分の目が、少しだけ乾いている。私は目薬を探し、棚の前で手首を見た。

内側に、紫の点がいくつか並んでいた。

小さな花の模様みたいな点々。仕切りの壁に散っていた、あの紫の模様と同じ色。私は指で擦った。落ちない。洗っても消えない。点は皮膚の奥にある。

点々は、ただ散っているんじゃなかった。
縦に、四つの列を作っていた。

翌朝、スマホの通知が鳴った。見覚えのないアプリ名が一つだけ表示されていた。開くと、白い画面に文字が縦に並ぶ。




その下に、赤い字で小さく書かれていた。

関係者以外立入禁止

そして、画面のいちばん下に、短い行が一つ。

「あなたは、どちら側ですか」

私は答えられない。答えようとすると、視界の端に白い縦線がまた浮かぶ。目を閉じても、消えない。閉じた瞼の裏に、ガラスの眼がはっきりと開いていく。

駅の窓は、まだ私の中にある。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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