緑の金網に残る白

写真怪談

都内で雪が積もると、街は音の角を落とす。車の走行音は遠くに引っ込み、緑道の足音だけがやけに生々しくなる。昼下がり、私はいつもの道を抜け、例の廃アパートの前で立ち止まった。

フェンスは緑色の金網で、上に雪が引っかかっている。誰かがわざと乗せたみたいに、一本だけ長く、布切れのように垂れていた。枝という枝が絡まり、枯れた房がいくつも宙にぶら下がっている。実なのか、花の名残なのか、茶色い小さな粒の集まりが、雪をかぶって重たげに揺れていた。

アパートは二階の手すりが赤錆で痩せ、屋根の縁が妙に剥き出しだ。火事で焼けた、と噂で聞いていた。どれほどの熱が通ったのかは、外からはもう分からない。ただ“そこだけ時間が止まった”という印象だけが残っている。窓の曇りガラスは、昼の白さを受けて鈍く光っていた。

雪が積もると、廃屋は「清潔」に見える。汚れも焼け跡も、白が上から塗りつぶしてしまうからだ。けれどその白さが、今日はどうにも“覆い隠すための白”に見えた。雪は煙の代わりに降っている、とでも言いたげに。

風がないのに、枯れ房が一つだけ震えた。枝の先ではなく、房そのものが、内側から引かれるように。次の瞬間、房に載っていた雪がほどけて落ち、落ちた先――緑のフェンスの上の白い帯に、吸い込まれるように消えた。

おかしいと思って目を凝らすと、その帯は“雪”ではなかった。雪に見えるだけで、表面がやたら滑らかで、白い脂みたいに光っている。重力に従って垂れているはずなのに、帯の端がわずかに浮き、金網の目をなぞるように形を変えていく。

二階の手すりの向こうで、コツ、と小さな音がした。誰かが金属を爪で弾いたような、乾いた音。続けて、コツ、コツ。一定の間隔で、廊下を歩く気配が増えていく。雪の日の昼に、靴音だけがはっきりと、建物の中から聞こえた。

私は無意識にフェンスの向こうを見上げた。曇りガラスの内側に、影が一つ、通った。人の形をしていない。ただ、背丈だけが“成人の高さ”に揃っている。影は窓から窓へ、ひとつ飛び、ひとつ滑り、手すりの錆の隙間に溶けていった。

次に起きたのは、雪のはずれ方だった。屋根の縁に乗った雪が、ぱらりと落ちる。普通なら崩れるだけだ。けれど、落ちた白は空中で一度まとまり、細い指の列みたいに揃ってから、欄干に“掴まる”ように止まった。

掴んだのは雪ではない。雪に似た白いものだ。欄干の赤錆に、白い指が焼けるように触れ、触れた場所だけ錆の色が薄くなった。まるで、そこだけ“元の赤”に戻そうとしているみたいに。

緑道の空気に、遅れて匂いが混じった。煙でも焦げでもない。濡れた布が古いストーブの上で温められた時の、生温い湿気の匂い。私は咳をした。咳の音が、フェンスと枝に反射して妙に大きく響く。

私は一歩下がった。緑のフェンスの白い帯が、足元へ滑ってきた。金網の目を抜けるはずがないのに、白は“網の向こう側”ににじみ出る。足首に触れた瞬間、冷たさではなく、熱が刺さった。凍傷の痛みではない。火傷の痛みに似ていた。

反射的に足を引くと、靴底に白いものが糸のように絡んだ。雪が溶けて糸を引いたのだと思い、もう一度だけ足を上げて確かめる。糸は伸びない。伸びないのに、ほどけもしない。氷でも布でもない、粉のような白が“付着している”だけだった。

近づけた途端、鼻の奥がじわりと熱くなった。冷えで痛む感じではなく、古いアイロンの蒸気を吸い込んだ時みたいな、生温い刺し方。息を吸うたびに、喉の粘膜が乾く。

二階の廊下で聞こえていたコツ、という音が止んでいる。代わりに、雪の上に落ちた自分の呼吸だけが、やけに大きい。吐いた息が白くなるはずの気温なのに、白くならない瞬間が混じる。息だけが、別の季節に紛れ込んでいる。

フェンスの上の白い帯に目を戻すと、帯の端が少しだけ形を変えていた。揺れていない。風もない。ただ、金網の目に沿って、ほんの数ミリぶん“位置が違う”。さっき見た帯と同じものなのに、次に瞬きをした時には、帯の角度が違っている。

曇りガラスの内側で、影が一つ、寄った。

人の姿ではない。なのに“こちらを見ている”という方向性だけが、はっきりする。ガラスの向こう側に何かがいて、こちら側に注意を向けている。そのことだけが分かる。視線の圧が、雪の静けさの中で不自然に浮き上がった。

私はその場で、靴底の白を指先で払おうとした。触れた瞬間、白が粉になって散る。散った粉は雪に落ちる前に、ふっと消える。消え方が、雪に吸われるのではなく、空気に“戻る”みたいだった。

その時、枯れ房がひとつだけ、ぱらぱらと粒を落とした。実が弾けたように見えたが、落ちた粒は茶色でも黒でもなく、濡れた灰の色をしていた。灰が雪の上に点を打つ。点はすぐに輪郭を失い、淡い染みになった。

染みが、増えていく。

屋根の縁から落ちた雪が原因ではない。落ちていない場所の雪にも、同じ染みが浮かぶ。まるで、雪の白さの下に最初から灰が仕込まれていて、表面だけが遅れて剥がれていくみたいに。

曇りガラスの影が、さらに一歩ぶん寄った。ガラスが曇る。もともと曇っているのに、曇りが“濃くなる”。息を吹きかけたみたいに、中央だけ白く霞み、そこに楕円が二つ、ゆっくりと浮いた。

目ではない。穴だ。焼けて開いた穴の形だ。

私は慌ててスマホを取り出した。何かを記録したいというより、画面の明るさで現実の側に立ちたかった。指先は冷たいはずなのに、ガラスに触れたところだけ熱い。さっきの生温さが、指の腹から侵入してくる。

カメラを向けた瞬間、画面の中で雪が一段だけ暗く見えた。現実の雪は白いのに、画面だけが灰色に寄る。露出のせいだと思い、角度を変える。変えたのに、灰色は戻らない。むしろ、フェンスの白い帯だけがやけに明るく浮く。

撮影ボタンを押すと、シャッター音が一拍遅れて鳴った。耳で聞こえた音と、指の感覚の間に、わずかなズレができる。たったそれだけなのに、背中に汗がにじんだ。

私は、歩いてその場を離れた。走らなかった。走るのは、ここに“何かいる”と認めるみたいで嫌だった。ただ、緑道の出口までの数十メートルが、いつもより長い。足音が一つ多い気がする。振り返らなくても分かる。一つ多い足音は、自分のではない。

出口の角を曲がった瞬間、息が白くなった。遅れて、冬が追いついたみたいに。

家に戻って靴を脱ぐと、靴底の溝に黒い粒がいくつか詰まっていた。砂ではない。指先でつまむと、軽く潰れて、粉になる。粉は黒ではなく、灰色。水で流すと薄く伸び、排水口へ落ちる寸前で、ふっと消える。消える時、なぜか小さく“温かい”。

その夜、アルバムを見返した。さっき撮ったはずの写真は一枚だけ保存されていて、構図は完璧に同じだった。緑のフェンス、枝の絡まり、赤錆の手すり、曇りガラス。

違うのは、枯れ房のひとつだ。

房の粒が、いくつか欠けている。欠けた部分が楕円に並び、まるで誰かが爪で抉ったみたいに揃っている。楕円の中心だけが、ほんのわずかに白い。雪の白ではない。光の反射でもない。白が“そこに貼りついている”。

拡大すると、その白は、薄い帯の質感に似ていた。フェンスの上にあった、あの帯の白と同じ滑らかさ。

私は画面を指でなぞった。なぞった部分が、すぐに曇った。指紋の曇りではなく、息を吹きかけたような曇りが、指先の形で残る。拭っても消えない。曇りの向こうに、例の楕円が二つだけ、ゆっくりと浮いてくる。

スマホを伏せると、机の上に、灰が一粒落ちた。

どこから落ちたのか分からない。袖にも髪にも付いていないのに、落ちた。灰は丸く、乾いているのに、触れるとほんの少し湿っていた。

窓の外は静かで、雪はもう降っていない。なのに、耳の奥でコツ、という音だけが、一定の間隔で続いていた。二階の廊下の音と同じ間隔で。

それが自分の心臓の音と重なった時、私はようやく気づいた。あの建物は、雪に覆われたのではなく、まだ“覆おうとしている”。白い帯は包帯で、灰は下地で、こちら側の呼吸の温度を測っていたのだと。

写真は、いまもアルバムの中にある。消そうとすると、指先が熱くなる。火傷の熱だ。

そして、消せないまま、次の雪の日を待っている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

タイトルとURLをコピーしました