都内の大きな屋内アリーナ。開演直前、客席は冬の上着の擦れる音と、スマホ画面の白い光でざわついていた。
ステージ側は演出のスモークで白く塗りつぶされ、向こうが見えない。上段から見下ろすと、霧が会場全体に“溜まっている”というより、どこかから“湧いている”ように見えた。
天井の高い位置に、照明が一直線に並んでいる。
まだ本番前のチェックなのか、ぽつぽつと明滅していた。その列を眺めているうちに、数が合わないことに気づいた。
点いている灯りの間に、どうしても一つ分の“欠け”がある。
目をこらした瞬間、その欠け目が、ただの暗がりではないとわかった。
暗いのではなく、そこだけ光を飲み込んでいる。奥行きがあり、穴のように“落ちて”いる。
穴の底で、細い輪郭がゆっくり揺れた。人の形だった。
逆さまに吊られた影。腕はだらりと下へ、髪のようなものがふわりと霧へ溶けている。
一度瞬きをすると、影は見えなくなった。
代わりに、欠け目から一本だけ、糸みたいに細い光が伸びた。照明の列から客席へ向かって、まっすぐ落ちてくる。
その糸が、通路側の席に座る男の肩に触れた。
男は、何か思い出したように立ち上がった。
コートのフードを直し、周囲に謝るでもなく、通路へ出る。階段を降りる。
不自然なのは、降り方だった。段差を踏んでいるのに、足首が動かない。体だけが滑るように下へ進む。
まるで、見えないエスカレーターに乗せられている。
誰も気にしていない。
隣の人はスマホを見て笑い、後ろの列は飲み物の蓋を開ける音を立てた。
会場の“普通”が、その男の異常を包み隠していく。
男がスモークの中に入った瞬間、霧が少しだけ濃くなった。
白が白を塗りつぶすように、男の輪郭が溶け、最後に残ったのは服の色でも肌でもなく、首元のストラップの反射だけだった。
それも、次の瞬間には消えた。
席は空いた。
けれど空席になったはずのそこには、まだ“熱”が残っていた。誰かが座っているみたいに、座面だけがわずかに沈む。
コートの肘の形のまま、見えない重みがそこに居続けている。
照明の列が、また一つ、瞬いた。
欠け目から光の糸が落ちる。
今度は、右手のブロックの端、立ち上がって通路を譲っていた中年の人の頭上に触れた。
その人も、同じように、謝らず、迷わず、霧へ向かう。
二人目が消えたあたりで、ようやく背中に冷たい汗が浮いた。
演出だ。そう思おうとした。
でも、演出なら、客が動くのは不自然すぎる。スタッフの誘導もない。周囲の反応もない。
何より、照明列の欠け目が、さっきより少しだけ大きくなっている。
息を呑んで見上げると、欠け目の周囲に、灯りが“並び直して”いるように見えた。
まるで歯だ。光る歯が、穴を囲っている。
穴の奥で、逆さまの人影が増えていた。二つ、三つ。客席で見た服の色、フード、マフラー。
彼らはぶら下がっているのではなく、座っていた。天井の裏側にもう一つ客席があって、そこに座ってこちらを見下ろしているみたいに。
スモークが、肺の奥へ入り込んだ瞬間、匂いが変わった。
機械の油臭さではない。濡れた布を長く放置したような、生き物の息の匂い。
霧は演出のはずなのに、会場の呼吸みたいに、吸って吐いてを繰り返している。
開演を告げるSEが鳴った。
拍手が起こり、歓声が波のように立ち上がる。
その波が、照明列の欠け目にも届いたのか、穴の縁の“歯”が一斉に光って、口が開いたように見えた。
客席のあちこちで、人が立った。
トイレではない。売店でもない。出口でもない。
ただ、スモークの奥へ向かって歩き出す。
不思議なことに、歩き出した人たちはみんな、顔を上げていた。
ステージではなく、天井へ。
照明列の欠け目を、見上げる角度で。
そのうちの一人が、こちらの列のすぐ下を通った。
目が合った。と思った。
でもその目は、こちらを見ていない。私の背後にある何かを見ていた。
その瞳の中に、照明の列が映っている。一本の線ではなく、円だった。
ぐるりと会場を囲む“光る歯”が、私の周りを閉じようとしている。
私は立ち上がれなかった。
立ち上がったら、糸が肩に触れる気がした。
息を止め、膝の上の指を固めて、ひたすら欠け目を見ないようにした。
ライブは始まった。
大音量が体を揺らし、客席は跳ね、叫び、光る棒を振った。
それでも、スモークの白は薄くならない。むしろ濃くなっていく。
ステージの光が霧に散って、会場全体がぼやけた水槽みたいになった。
演奏の合間、ふと静かになる瞬間がある。
その一瞬だけ、私は確かに聞いた。
天井の裏側から、何千もの布が擦れる音。上着の擦れる音。
こちらと同じざわめきが、もう一つ上に重なっている。
終演後、出口へ流れる人混みの中で、ふと通路の番号表示を見上げた。
緑の避難口サインが点いている。
その隣に、自分の席のブロック表示があったはずなのに、そこだけ暗い。
照明列の欠け目と同じ暗さが、小さく空いていた。
家に帰ってから、スマホの写真を見返した。
スモークと照明列が写っている、あの一枚。
拡大すると、欠け目の中に、逆さの人影がいる。
そして、その影の列のいちばん端に、見慣れたフードがある。
自分の背中の形だ。
撮ったはずの私が、天井の裏側の客席に座っている。
写真を閉じようとした瞬間、画面の上端に通知が出た。
「座席変更のお知らせ」
開くと、次回のイベントの座席が表示された。
上段0列0番。
画面をスクロールしても、会場図が出てこない。
“0列”なんて存在しないはずなのに、なぜかエラーにならない。
そして通知の下に、もう一行だけ、小さく書かれていた。
「照明列の欠け目付近は、混雑が予想されます。」
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


