壁画トンネルの影

写真怪談

そのトンネルは、通勤路の「ただの近道」だった。
コンクリートの天井は低く、昼でも中ほどは薄暗い。両壁には、昔に描かれた海の壁画が残っている。右側には白い生き物の輪郭がいくつも浮かび、黒い魚のような影が泳いでいる。左側には渦のような青が重なり、擦れて濁っていた。

出口はいつも明るい。
白い柵の向こうに、白い建物と大きな換気ルーバー。季節の色を先取りしたように、黄いろく色づいた木が一本だけ目立つ。右上には古い配電箱が突き出し、そこから伸びる管が壁を這っている。

ある日、夕方の帰り道、前を二つの影が歩いていた。
背の高い影と、小さな影。距離は離れていないのに、二つの足音が少しずれて聞こえる。小さな影の方だけ、靴底が濡れた床を踏むみたいに、ぺた、ぺたと妙に柔らかい。

トンネルの中ほどに差しかかったときだった。
右の壁画の「海」が、少しだけ深くなった気がした。絵の上の青が、目の焦点を外した瞬間に、ほんの一段、濃く沈む。壁なのに、奥行きが生まれる。
視線を逸らそうとしたが、逸らすほどに端の方で動きが増える。白い輪郭の群れが、こちらの歩く速度に合わせて、じりじりと位置を詰めてくる。

小さな影が、ふと立ち止まった。
背の高い影は一歩先で止まり、振り返らずに待つ。影の肩の線が少しだけ傾いて、何かを促すように見えた。
その瞬間、床の暗さが変わった。
小さな影の足元だけ、影が二重になったのだ。もう一つの影は、本人よりほんの半歩遅れて、右壁に沿って伸びていく。まるで“連れ”が、壁の海へ行こうとしているみたいに。

壁画の黒い魚が、そこへ吸い寄せられた。
音はない。けれど、空気が湿った気がして、耳の奥で水が満ちる圧がした。
二重の影が、ゆっくりと剥がれていく。影は人体から離れると急に軽くなり、紙片のようにひらひらと壁へ貼りつき、海の青へ沈み込む。
「影が取られた」と思ったときにはもう遅く、小さな影の輪郭は、取り返しのつかないほど薄くなっていた。

出口の白い柵の先、白い壁に小さく「B1」と表示がある。
それが目に入った瞬間、理解してしまった。ここは“地下”へ降りる入口ではない。ここを通過した人間のうち、何人かが、ひとつ下の階へ落ちる。
階段もエレベーターもないのに。

背の高い影が動いた。
手を伸ばし、小さな影の肩を掴む。乱暴ではない。けれど、その掴み方は親しい者のそれではなく、落とし物を拾うみたいに正確だった。
そして、二人はまた歩き出す。

私が怖かったのは、二人が「出口へ向かっている」のに、距離が縮まらなかったことだ。
歩いても歩いても、白い柵は同じ大きさのまま。黄いろい木の葉も揺れない。換気ルーバーの黒い格子だけが、目の奥で規則正しく増殖していく。
その間も、右の壁画の海は、ひたひたと深さを増す。白い生き物の輪郭が、水面の泡のように増え、黒い魚は、通路を横切る影を数えているみたいに、一定の間隔で戻ってくる。

私の足元にも、影が増えた。
最初は気のせいだと思った。次に、靴の横にもう一本、細い影が走っているのが見えた。最後に、それが“私の歩調より半歩遅い”ことに気づいた。
さっき小さな影から剥がれたものと、同じだ。

耐えきれず、私は立ち止まった。
そして、やってはいけないと分かりながら、右の壁を見た。

海の壁画の端に、新しい影が描き足されていた。
濡れた絵具の艶もないのに、そこだけ輪郭が鮮しい。背の高い影と、小さな影。二人の足元に、もう一つ、細い影がある。
それは私の形だった。

その瞬間、背後で“通路”が鳴った。
コンクリートが軋むのではない。壁の海が、波を立てるときの、低い圧だけが身体の内側に来る。視界が一瞬、水に沈むみたいに曇った。
影が、足元から抜けた。

私は反射的に、出口へ走った。
走ったはずだ。だが、足音が一つ足りない。私の足音だけが空洞に響き、もう一つの足音は、右側の壁面に吸い込まれるように遠ざかっていく。

気づけば、白い柵の外に出ていた。
空気は乾いていて、黄いろい木の葉が風で揺れている。換気ルーバーの格子は静止し、白い壁の「B1」もただの表示に戻っていた。
振り返ると、トンネルの入口はいつも通り暗いだけで、誰もいない。

ただ、右の壁画だけが変わっていた。
黒い魚の影が一匹、増えている。
そして、足元に落ちる私の影は、細部がどこか欠けていた。輪郭の内側が空っぽで、薄い膜だけが地面に貼りついているように見える。

帰宅してからも、妙なことが続いた。
鏡に映る自分はちゃんといるのに、窓に映る自分が、ほんの半拍遅れる。階段の踊り場で、自分の足音が増える。電灯の下で、影だけが先に曲がる。

そして数日後、あのトンネルの壁画に、また“新しい二人”が増えた。
背の高い影と、小さな影。出口へ向かって歩いているのに、永遠に出口へ届かない二人。
その足元には、細い影が一本、ぺた、ぺたと遅れてついていく。

私の影が、今もそこで、残数を数えている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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