夕暮れが近い公園は、人通りの割に音が薄かった。子どもの笑い声も、犬のリードの金具が鳴る音も、池の縁へ近づくほど遠ざかる。まるで、池が全部を吸ってしまうみたいに。
池のほとりのベンチに、ひとりの男が座っていた。深いフードの上着、足元に置かれた黒いギターケース、ベンチの板の端に小さなペットボトル。男はアコースティックギターを抱え、練習している――そう見えた。
なのに、音がしなかった。
男の右手は確かに動いている。左手も、コードを押さえる位置で小刻みに指が走る。けれど空気は揺れない。弦が鳴る前の、あの「ふっ」と立ち上がる気配が一切ない。
近くを通る人たちは多いのに、誰も立ち止まらない。ベンチの周りだけ、歩幅をほんの少し変えて避ける。自分でも不思議なくらい自然に、そこを“空けて”通り過ぎていく。
私は池の水面を見た。
波紋が、男の手の動きに合わせて広がっていた。風はない。枝も動かない。なのに水面だけが、音の代わりに震えている。
男が弦を弾くたび、水が「弾かれて」いた。
不意に、耳の奥でだけ音がした。
空気からではなく、鼓膜の裏側から鳴るような、乾いた四つの和音。胸骨が共鳴して、息が詰まる。私は足を止めた。止めた瞬間、周りのざわめきがすべて薄紙の向こうへ退いた。池とベンチと、自分の呼吸だけが濃くなる。
男は顔を上げないまま、同じ進行を繰り返している。
最後の一音だけ、いつも寸止めで終わる。解決しない。終わらないまま、また最初に戻る。練習というより、何かを落ち着かせるための手つきに見えた。
私は無意識に隣のベンチの背もたれへ手を置いた。木の板は冷たく、指先だけがじんと痺れる。視線を戻すと、男のギターの胴に夕陽が当たって艶めいていた。弦は光っている。そこだけ現実みたいに正しい。
そのとき、水面の“反射”が遅れて見えた。
男の姿が映るはずの位置に、別の背中が座っていた。男より小さい。肩幅が子どもみたいに狭いのに、背中だけがやけに丸く大きい。首が――ない。頭の代わりに、水が黒く盛り上がっている。
私は瞬きをした。反射は戻らない。
水面の小さな背中は、男の演奏と同期して、肩だけを上下させ続ける。
男の左手が、あるコードで止まった。押さえるはずの指が、わずかに浮いている。弦を押さえ損ねたときの、あの逡巡。けれど音は、耳の奥で“正しく”鳴り続ける。
次の瞬間だった。
水面から、手が出た。
濡れた手首がまず現れ、指が一本ずつ伸びる。水の重みで動きが遅いのに、狙いは正確だった。手は水面を割りながら伸び、男のギターのネックへ届く――届いたはずなのに、服も木も濡れない。ただ“影”だけがそこに重なる。
その指が、男の左手の上に重なった。
男の指が、勝手に押し下げられる。
指板に爪が食い込み、弦がきゅ、と鳴る――今度は空気が揺れた。遅れて、池がもう一度波紋を広げる。男の喉が小さく痙攣し、背中が硬直する。それでも男は右手を止めない。止められない。
水面から出た手は、押さえる位置を変えていく。
まるで教師みたいに、正しいフォームへ矯正していく。男の指は従うしかない。耳の奥の和音が、少しずつ濃くなる。濃くなるたび、私は自分の指先が痛くなっていく。弦を押さえたことなんてないのに、指の腹に弦の跡が浮いた。
通行人は相変わらず通り過ぎる。
誰かがすぐ横で笑った。笑い声は聞こえたのに、視線はベンチに落ちない。誰もこちらに気づかない。私だけが、池と男と、あの手を見ている。
男が、ようやく顔を上げた。
目が合う――はずだった。けれど男の目は私を通り越し、もっと奥、池の中央を見つめていた。瞳が、夕焼けの色ではなく、濁った水の色をしている。まばたきが遅い。
男の口が開いた。何か言おうとしている。
けれど声にならない。唇だけが、乾いた音に追いつこうとする。
水面の手が、最後のコードを押さえた。
あの“寸止め”の場所だ。今度こそ終わる――そう思った瞬間、指が一本だけ弦から離れた。わざと外したみたいに。音が、解決する直前で崩れる。
崩れた音が、私の身体の中へ落ちた。
男が立ち上がった。ふらつきもなく、ただ立って、ギターを抱えたまま歩き出す。ギターケースは置き去りだった。男は振り返らない。池のほうも見ない。ただ、人波の中へ自然に溶けていく。さっきまで男を避けていた人たちが、何事もなかったようにベンチの前を通る。
私は、ベンチに残ったケースに目を落とした。
黒い蓋が、ほんの少し開いている。中から冷たい湿り気が滲むように匂った。落ち葉が腐る匂い。池の底の匂い。
蓋を開けると、ギターは入っていない。
代わりに、濡れた弦だけが束になっていた。いや、弦ではない。細い黒い糸。絡まった髪の毛みたいなものが、金属の留め具に結ばれている。指で触れると、糸がぬるりと動いた。生き物のように。
その瞬間、背後で、もう一度あの和音が鳴った。
振り向くと、ベンチには誰もいない。
なのに、ベンチの“影”だけが座っていた。影が、影のギターを抱え、影の指でコードを押さえている。音はしないはずなのに、耳の奥でだけ響く。影は顔を上げ、私ではなく水面を見つめていた。
水面の反射に、今度は私の背中が映っている。
そして私の背中にも、首がない。頭の代わりに、水が黒く盛り上がっている。
私は走って逃げた。
走りながら何度も指先を握った。握るたび、弦の跡が濃くなる。夜、家の蛇口をひねったとき、最初の水が落ちる音に混じって、あの崩れた和音が鳴った。
それ以来、夕暮れが近づくと、私の指が勝手に形を作る。
ギターなんて持っていないのに。何も押さえていないのに。水の音がするたび、耳の奥でだけ、あの進行が始まる。
池は、誰かの練習を待っている。
音を、空気ではなく水面に沈める練習を。
そして、沈んだ音は――次の指を探して、また浮かび上がる。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


