昼間の光は、生活の汚れを正直に照らす。
古い集合住宅の前を通りがかったとき、二階のベランダが目に止まった。波打った鉄柵の内側に、薄緑の物置ロッカーと、木製の椅子が一脚。使い古された木肌と錆の筋が、そこだけ時間を遅くしているように見えた。
私は道路から、その椅子を見上げた。
風はないのに、椅子が一度だけ「ぎ」と鳴った。誰かが腰を下ろしたときの音だった。
思わず窓に目がいく。ガラスは青空と電線を映していて、室内はほとんど読めない。けれど、その反射の中にだけ“座っている影”がいた。実物の椅子は空席なのに、反射の中では肩と頭の輪郭が窓に向かって居座っている。
その部屋の住人は知り合いだった。私は呼び鈴を押し、室内に上がった。
「ベランダ? 使わないよ」
彼は軽く笑って、窓から外を覗いた。カーテン越しの光が白く滲み、部屋はたしかに無人の匂いがした。
ただ、窓ガラスだけが妙に綺麗だった。手入れした跡がある。なのに、カーテンの裾には椅子の高さに合わせた擦れが一箇所、細い白い筋になって残っていた。
「椅子、いつもあそこに?」
「前の人のだと思う。汚れてるし、触りたくない」
彼は言いながらも、窓に近づこうとしない。窓の向こうに何もないはずなのに、“窓の前”だけ避けているように見えた。
その夜、彼から短いメッセージが来た。
「椅子の向き、変えた?」
私は触っていない、と返した。彼も触っていないという。なのに、椅子が窓に背を向け、柵の方へ向き直っていたらしい。外を見ている。誰かを待つ姿勢で。
翌日、私はもう一度その部屋を訪ねた。彼は疲れた顔でドアを開け、言葉少なに私を通した。
室内で窓の前に立つと、昨日と同じ反射がある。青空、電線、薄い縦筋。
「確認したい」
そう言って私は窓を開け、彼と一緒にベランダへ出た。
椅子は元の位置に戻っていた。窓に向かって、空席のまま。
けれど座面には凹みが残っていた。柔らかい尻の形じゃない。骨の角が二点、深く沈ませたような跡。触ると冷たいのに湿っていた。雨の湿り気ではなく、体温が抜けた水気だった。
ロッカーの扉が、ほんの少し開いていた。
鍵がないはずなのに、風で開くような軽い扉でもない。隙間の暗がりから、古い封筒の糊みたいな紙の匂いがした。
私は指をかけて扉を開けた。蝶番が泣くように鳴る。
中はほとんど空で、底に薄い布が一枚。
その布の上に、小さな紙片が整列して置かれていた。名札みたいな紙。手書きの名字が並んでいる。どれも字面は違うのに、筆圧と癖だけが同じだった。
最後の一枚だけ、白い。
白いのに、光の当たり方で凹みが読めた。まだ書かれていないんじゃない。“書かれた跡だけが残っている”。
そこに、今の住人の名字があった。
彼はそれを見ても驚かなかった。驚かないふりですらない。最初から知っている顔だった。
彼は窓ガラスを指で叩いた。軽い音。次に少し強い音。最後に爪で擦る音。
そのたび、ガラスの反射がわずかに揺れ、椅子の周りだけ光が濁った。
反射の中の“座る影”が、ゆっくりこちらを向いた。
顔がない。皮膚の平面があるだけで、目も鼻も口も最初から削ぎ落とされている。
それでも、見られている感覚だけが刺さってくる。視線だけが、肺の奥に指を入れて、呼吸の形を変えようとしてくる。
膝が勝手に曲がった。
座れ、と声がしたわけじゃない。なのに身体の重心が“空席”に吸い込まれる。空席の形が先に私の形を決め、そこに合わせろと迫ってくる。
尻が座面に触れる直前、私は柵を掴んで踏みとどまった。
鉄の冷たさが現実を繋ぎ止めた。痛みが呼吸を戻す。私は身体を引き上げ、椅子から距離を取った。
椅子は何事もなかったように止まった。
昼の光は明るく、錆はただの錆に戻る。けれど窓の反射だけが、まだ終わっていない顔をしていた。
彼が小さく言った。
「空席、減らないんだよ」
私はそれ以上そこにいられず、ベランダから室内へ戻り、共用階段を降りた。
外に出て、建物を見上げる。
椅子が、私の位置に合わせるように少しずつ角度を変えていた。見送るためじゃない。次に座る人を、正しい位置に導くための向きだった。
翌朝、私は遠回りしてその建物の前を通った。
二階の窓は開け放たれ、カーテンが風に膨らんでいた。室内は空っぽに見える。
ベランダの椅子だけが綺麗に拭かれ、木目が生々しく浮いていた。体温を待ち受ける肌になっている。
ロッカーの隙間から、白い紙が覗いていた。
昨日まで“凹みだけ”だったはずの最後の名札に、濃い線が入っている。新しいインクの滲み。乾ききっていない。
そこに書かれていたのは、私の名字だった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


