坂の途中にあるこのアパートに引っ越してきて、最初に気になったのは景色だった。
窓の外は、表通りの整った住宅とは裏腹に、どこか工事の途中で放り出されたような裏側ばかりが見える。
その中に、一軒だけ妙な家がある。
白い外壁の二階建てで、一見すると普通の家なのに、通学路に面した側だけ地面が高く盛り上がっているせいで、一階がほとんど埋まってしまっているのだ。
足元の高さに、靴箱くらいの小さな窓が二つ。
そのすぐ上には、斜めについた屋根が埋もれるように張り出している。
窓の向かいの電柱には、緑色の「通学路」の看板と、カーブミラー。
その上に「この先50m」と書かれた標識がぶら下がっている。
朝になると、ランドセルを背負った子どもたちが、そこを列になって通り過ぎていく。
私は在宅で仕事をしているので、毎朝、その風景を横目に見ながらパソコンに向かっていた。
子どもたちは、あの窓の前に差し掛かると、少しだけ歩く速度を落とす。
覗き込む子もいれば、わざと見ないようにしている子もいる。
ある夕方、仕事が一段落したのでベランダに出てみると、ちょうど写真で見たような橙色の光が、埋まった一階の外壁を斜めに染めていた。
通学路には誰もいない。
足元の窓だけが、夕焼けの色を吸い込んだまま、真っ黒に沈んでいた。
そのとき、カーブミラーの中に人影が映った。
ランドセルを背負った小さな男の子が、窓の前に立っている。
ミラー越しの姿だから、顔はよく見えない。
ただ、彼は何度も何度も、足元の窓に向かって手を振っていた。
変だな、と思って身を乗り出した瞬間、ミラーの中の景色がわずかに揺らいだ。
男の子の横に、もう一列、子どもたちの背中が並んでいるのが見えたのだ。
黄色い帽子、丸いランドセル、白いシャツ。
ひと昔前の制服のような、少し古めかしい姿をした子どもたちが、窓の方を向いたまま、列になって立っている。
私は慌てて視線をミラーから通学路のほうに移した。
だがそこには、誰もいなかった。
ただ、オレンジ色の家と、暗い窓と、張り巡らされた工事用ロープがあるだけだ。
その夜、近くのコンビニで顔を合わせた老人に、なんとなくその話をしてみた。
黄色いベストを着て、朝は旗振りをしているらしい人だ。
「……ああ、あそこの窓か」
老人は、ため息をひとつ漏らしてから、缶コーヒーのフタを開けた。
「昔は、もっと道路が低かったんだよ。あの家の一階が、今の通学路と同じくらいの高さでな」
坂を下りきったところで、トラックのブレーキが利かなくなり、小学生の列に突っ込んだ事故があったという。
数人がその場で亡くなり、数人は助かったが、骨折や後遺症で長く学校に行けなくなった子もいた。
それから道路をかさ上げして、歩道を作って、通学路の標識も立てた。
「土を盛ったもんだから、あの家の一階、半分以上埋まっちまってな。
窓だけが、昔の通学路と同じ位置に残ったわけだ」
老人はそう言って、私の顔をちらりと見た。
「……今でも、あそこの前で立ち止まる子がいるだろう?」
私は、曖昧に頷いた。
数日後の朝、その意味を思い知らされることになる。
その日は雨上がりで、路面がまだ濡れていた。
子どもたちの列が、いつもより静かに通り過ぎていく。
私は窓を少し開け、ぼんやりとその様子を眺めていた。
一番後ろを歩いていた、一年生くらいの女の子が、急に列から外れた。
水たまりを避けるように、ふらふらと歩道の端へ寄る。
そして、足元の窓の前でぴたりと止まった。
彼女はしゃがみ込まず、ただまっすぐ前を向いている。
その視線の先が窓だと気づいたとき、私は違和感を覚えた。
窓は彼女の足首ほどの高さしかないのに、彼女の目線の位置に、何かがあるように見えるのだ。
ガラス越しに、同じくらいの背丈の「誰か」が立っている。
夕方に見た古い制服と同じ、黄色い帽子。
色あせたランドセル。
窓の向こう側にいるその子は、まるで、地面の下から生えてきたような高さで、女の子と目を合わせていた。
首から下は、土に埋まって見えない。
女の子は、何か話しかけられているように、こくこくと頷いた。
ガラスが霧のように白く曇り、そこに小さな手形がいくつも浮かび上がる。
私が思わず身を乗り出したその瞬間、二人の姿は窓の黒に溶けるように見えなくなった。
列の先頭のほうから、「早くー」と声が飛ぶ。
私は目をこすってもう一度見たが、窓はただ濡れているだけで、女の子も、窓の中の子もいなかった。
彼女がいたはずの場所には、小さな水たまりと、踏まれて崩れた泥だけが残っている。
その日の夕方、自治会からLINEが回ってきた。
「一年生の女児が下校途中に行方不明になりました。最後の目撃情報は、通学路の途中……」
場所の説明を読むだけで、どこを指しているのか分かってしまった。
私はスマホを持つ手の汗を拭いながら、写真に添付された女の子の顔を見た。
今朝、窓の前に立っていた、あの子だった。
警察も消防も出て、近くの川や公園まで探したらしいが、女の子は見つからなかった。
しかし、あの窓について言う勇気は、どうしても出てこなかった。
「窓の中の子と話していた」と説明すれば、きっと、私自身が疑われる。
それからしばらく、子どもたちは保護者と一緒に集団登校するようになった。
通学路のロープは張り直され、窓の前には三角コーンまで置かれた。
それなのに、不思議なことに、足元の窓ガラスだけは、日に日に黒さを増していった。
ある朝、私は試しに、カーブミラーのほうを先に見てみた。
ミラーの中では、子どもたちの列が、きちんと二列になって歩いている。
一列は、現代のランドセルを背負った子どもたち。
もう一列は、その影にぴったり重なるようにして歩く、古い制服の子どもたち。
どの顔も、少しだけ土色をしていて、歩幅が妙に揃っている。
列の最後尾には、見覚えのある一年生の女の子がいた。
彼女だけが、こちらに顔を向けている。
ミラー越しに、その視線が私の胸のあたりを貫いた。
私が息を呑んだ瞬間、ミラーの中で列が角を曲がる。
それに合わせて視線を通学路に戻すと、そこを歩いているのは、現実の子どもたちだけだった。
影の列は、ミラーの中にしかいない。
しばらくして、道路の再整備が始まった。
工事の案内板には、「歩道かさ上げ工事」と書かれている。
重機が入ってきて、ロープの張られていた空き地の土が削られ、また別の場所に盛り直されていく。
家の一階は、さらに深く地面に飲み込まれようとしていた。
ある夕方、工事が一段落したあとで、私は意を決して通学路を歩いてみた。
新しいアスファルトはまだ柔らかく、靴底が少し沈む。
埋まった一階の窓は、ついに私のくるぶしよりも低くなっていた。
ガラスには、黒いフィルムが貼られたのか、外からは一切中が見えない。
それでも、そこを通り過ぎようとしたとき、足元から、空気がすっと冷えるのを感じた。
耳を澄ますと、地面の下から、何十人分もの靴音が、こつん、こつん、と揃って響いてくる。
声は聞こえない。
だが、朝に聞き慣れた「おはようございます」の挨拶が、喉の奥で一斉に形になっているような気配だけは、はっきりと感じた。
怖くなって足を速め、角を曲がる。
振り返る勇気はなかった。
その代わり、電柱のカーブミラーを見上げた。
ミラーの中で、私は、通学路を歩く子どもたちの列の中に立っていた。
スーツ姿の大人の体のはずなのに、映っているのは、ランドセルを背負った誰かの背中だ。
私の足元は、窓と同じ高さで、地面の下へと吸い込まれるように切れている。
列の最後尾で振り返った一年生の女の子が、また私を見上げた。
その顔の横には、さらに小さな子どもたちの顔が、幾重にも重なっている。
みんな、行き先の分からない坂の下へ向かって、一列に並んでいる。
私は、思わず目を閉じてしまった。
ミラーから顔を背け、足早に家へ戻る。
それ以来、朝の通学路を見るのをやめた。
窓の外に目を向けるときは、わざと別の方向を見るようにしている。
それでもたまに、視界の端で、足元の高さに並んだランドセルの列が、ちらりと揺れるのが分かる。
あの埋まった一階の窓は、これからも地面の下へ沈んでいくだろう。
そのたびに、昔の通学路と今の通学路の高さは、少しずつ近づいていく。
いつか完全に重なったとき、ミラーの中と外で数の合わない子どもたちは、どこへ行くのだろうか。
私は今も、坂を下る子どもたちの背中を数えながら、数えきれなかったぶんを、地面の下で数え直している。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


