庭の奥に、皿のような外灯がひとつ、まだ空が青いうちから点っていた。
橙の灯りは木の葉のあいだから漏れて、家の壁を薄く舐める。傘の縁には錆が浮き、裸電球の中で糸のような火が、息をするたび形を変える。
留守宅の見回りを頼まれたのは、そこがこの町の“帰らずの家”と呼ばれているからだ。
海沿いの古い家で、台風の年にひとり帰らなくなった。家族がいなくなってからも、毎夕この灯だけは誰かが点け続けたのだという。迎え火の代わりに。
門の鍵を開けると、庭の土が湿っていた。雨上がりではない。水の匂いではなく、塩の匂いがした。
外灯のスイッチは柱の陰にある。試しに切った。灯りは消え、急に庭全体が重たくなる。
そのとき、葉の間で何かが動いた。風ではない。風なら、音はあちこちから同時に起きるのに、そこだけが揺れた。
もう一度、スイッチを上げる。
橙が戻る。戻った瞬間、外灯の傘に、顔が映った。わたしの顔ではない。
濡れた髪が額に貼りつき、皮膚の色が水越しのもののように鈍い。
それは外灯の真正面に立っている。なのに、足も影も見えない。光だけが、その輪郭の空白を縁取っていた。
「……おかえりなさい」
声に出した覚えはない。喉が勝手に言葉を押し出した。
外灯の電球が、ちり、と小さく鳴る。フィラメントが細く伸び、向こうの口の形に沿う。
顔は灯りに寄った。傘の内側に、鼻の先が触れているはずだ。ガラスの向こうに、塩で荒れた唇が見えた。
わたしが一歩退いたとき、足下に冷たいものが弾けた。濡れている。葉の露ではない、潮の滴った跡が、砂のない庭に丸い痕を刻んでいく。
家のほうで、古い引き戸がわずかに鳴った。
振り返ると、誰もいない。
外灯に戻すと、顔はもう傘の外に出ていた。
輪郭は人の形を保てず、枝葉の影と溶け合って、濃淡だけになっている。それでも、灯りに向けて上がる顎の角度が、人の癖のように生々しい。
光に温まりたがっている。遅れて帰ってきた体温を、灯の中に探している。
スイッチを切ったら、この家のどこかへ入ってしまうのだろうか。
わたしは手を伸ばし、どうしても押せなかった。
代わりに、傘の縁をほんの少しだけ、指で叩いた。カン、と乾いた音。
顔がこちらを向いた。目の部分だけが、空の濃い青さを映して空ろに明るい。
そこに、誰かの癖があった。台風の年に消えた、漁の帰りにいつも外灯の下で煙草に火をもらっていたという人の、少し上目遣いの見上げ方。
顔は、ふいに傘から離れた。
枝の間を水の影が抜けていく。庭の出口は家の裏手だ。そこには道はない。
ただ、古い塀と、暗くなりはじめた藪。
濡れた足音がしないのに、藪の奥で緑が一斉に重たくなった。
わたしは追わず、ただ外灯の下に立ち続けた。灯りに頬を寄せると、ほんのりと潮が焦げた匂いがする。
翌朝、見回りの報告に戻ると、外灯は切れていた。
スイッチは上がったまま。電球は熱を持ち、傘の内側には、指先でなぞったような白い筋が幾本も残っていた。
それは海岸の砂紋に似て、最後だけが玄関の方角を向いていた。
その日から、青い空の底が暗みはじめると、必ず外灯は独りで点る。
塩の匂いは夜のうちに薄れ、朝には跡形もない。
けれど傘の白い筋だけは、夜ごと増えていく。
そのたびに、玄関の方向が、少しずつ家から遠ざかっていく気がする。
灯りは迎え火のはずなのに、誰かを連れて、どこかへ歩いている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



