分別できないもの

写真怪談

玄関を出ると、路地の壁づたいに四つの箱が並んでいる。赤、緑、青、そして黒。
初めて見たときは海外式の分別かと思った。けれど町内会の回覧板には、日本語の上に、英語のようで英語ではない説明が貼られていた。

赤──怒り
緑──後悔(熱い灰は入れない
青──声(叫び・泣き・言い訳)
黒──不可燃(触れないこと)

注意書きの「熱い灰は入れない」の並び方だけが、本当にそのまま英語のステッカーを訳したみたいに浮いていた。
誰かがイタズラで作ったのだと思った。けれど、朝の共同放送はさらりとこう言った。

「本日より、感情の分別を徹底してください。間違いがあった世帯名は読み上げます」

引っ越してきたばかりの私は顔をしかめた。感情? 町は静かで、人も親切だ。だが放送だけが、どこか薄く冷たい。
翌明け方、散歩の犬に引かれながら、私は赤い蓋がひとりでに小さく鳴るのを見た。温まったプラスチックが縮む音。誰も近くにいないのに、蓋が呼吸するみたいに盛り上がって、また落ち着いた。

昼、向かいの奥さんが緑の箱に封筒を入れていた。封筒には、ぎっちり書いた紙が何枚も入っていて、蓋がわずかに重たそうに沈んだ。
「それ、何ですか」と聞くと、奥さんは周りを見てから、唇を小さく尖らせて言った。

「後悔ですよ。冷めたのから捨てるの。熱いうちは、燃え移るから」

冗談でしょう、と笑いかけたが、奥さんは笑わなかった。代わりに「昼はダメ」と囁いた。
「日が高いと、赤と青が寄ってくるの。夕方までに色が混ざると、町内放送で呼ばれますからね」

その夜、私は自分の後悔を数えてみた。母に電話を返さなかった日、友人の相談を既読で流した夜、ここに越してくる前、別れたいと言われたときに言い返した言葉。
数えるほど熱を帯び、喉の奥に煙が溜まる感じがした。なるほど、熱い灰。

夜明け前、路地がまだ水っぽい青で満ちている時間。私は緑の蓋を開け、メモ用紙を一枚ずつ折って入れた。
箱の中は、紙の擦れる音すら吸い取るように静かだった。入れるたび、胸の温度が少しずつ下がる。
最後の一枚を投げ込んだとき、奥の方から、濡れた布を絞るような音がした。私は反射的に蓋を閉め、思わず笑った。ばかばかしい。これはただの習慣、清掃のための冗談だ。

午前八時、放送が鳴った。

「本日、緑に熱い灰が混入しました。該当世帯は、本日中に開蓋立会をお願いします」

胸が詰まった。私のことだとすぐ分かった。
自治会長の家を訪ねると、年配の男が黙って頷き、路地までついて来て、緑の蓋を指差した。

「あなた、まだ熱かったでしょう」

「……何がですか」

「後悔は温度がある。冷えるのを待たずに入れると、赤や青に燃え移る。だからNO HOT ASHESなんです」

私は笑おうとして、口が動かないのに気づいた。
冗談みたいな規則に腹を立てたかった。けれど腹が立たない。熱が残っているはずなのに、怒りが出てこない。
たしかに私は、昨夜まで後悔でいっぱいだった。けれど今は、何かの回路を抜かれたみたいに、軽い。ただ、軽すぎる。

その日から、私は謝れなくなった。
仕事でミスを指摘されても、「そうですね」と言うだけで心が動かない。
エレベーターで先に降りてきた人と肩がぶつかっても「どうも」で終わる。
内側のどこにも、踏みとどまって向き合う場所が見つからない。反省が起動しないのだ。
代わりに、夜になると青い蓋がうっすら開きかけているのが見えるようになった。薄い隙間から、紙でこすったような声が流れる。
「ごめん」「ごめん」「ねえ」……湿った言い訳たち。私の声にもよく似ていた。

二週間も経たないうちに、放送で他の名前がいくつか読み上げられた。
赤に混入、青に混入。声が怒りを煽り、怒りが声を呼び、色が混ざる。
そのたびに、該当世帯の玄関前には、使い古しのバケツが置かれた。バケツは黒い輪郭をしており、底に小さく“不可燃”と手書きされている。
自治会長は言った。「混ざった分は、黒に回収するしかない。分別できないものは、燃えないんです」

ある朝、私は緑の蓋の内側に薄い文字を見つけた。
かさぶたのように乾いた跡で、「冷めてから」。
指でなぞると、蓋のプラスチックが少しだけ暖かかった。誰かが今朝、ここで立ち尽くしていたのだ。
私はその日のうちに、母へ電話をかけた。呼び出し音が鳴る間、何を話すか考えた。謝る言葉の順番、言い訳の言い回し。
けれど受話器の向こうの声が出た瞬間、私は「ああ、元気?」と言って、それ以上が続かなかった。
必要な感情が、色ごとどこかの箱に置き忘れられている。

三度目の混入が出た週、放送は言い方を変えた。

「分別できないものは、各自の判断で処理してください」

その夜、路地はいつもより湿っていた。近くの家々の玄関先に、黒い輪郭のバケツが並ぶ。
私は自分の前にも一つ置いて、しばらく眺めた。
風のないはずの夜なのに、赤い蓋が小さく鳴り、青がうすく震え、緑が、ほんのわずかに開いた。
隙間から、冷えた言葉がこちらへ滑ってくる。

「どうして」「どうして」「どうして」

私はその声を、自分の喉の奥と照らし合わせた。そこには何もない。
私は、反省の前兆というものを捨て過ぎたのだ。
自分で仕分けて、自分で楽になったつもりで、私は分別そのものをどこかに落としてきた。

バケツの底には、黒い紙が一枚入っていた。
“その他”。
町のやり方は最後にこれを求めるのだろう。怒りでも、声でも、後悔でも分けられなくなった残りを、ここに入れろと。
私は玄関に戻り、財布と身分証と携帯をテーブルに置いた。家中の電気を消して、鍵だけをポケットに入れた。

路地に出ると、東の空が明るくなる。赤、緑、青、黒。
四つの箱は静かに並び、どれもわずかに開いて、私の吐く息を待っている。
私は黒いバケツを引き寄せ、蓋に指をかけた。
内側は驚くほど冷たく、息が薄く霧になった。
私は喉の奥へ手を伸ばすみたいに、胸の中から何かを摘み上げるふりをして、そっとその空白を落とした。

底から、音がした。紙と紙の触れ合う、乾いた音。
バケツの中には何も見えなかった。けれど私は、それで良いのだと思った。
放送がはじまる。
「本日も分別にご協力ありがとうございます。混入はありませんでした」

その日から、私はとても静かな人間になった。誰からも好かれる“扱いやすい”人。
後悔は冷え切って、声はどこにも流れず、怒りは最初からない。
ただ、朝だけは違う。箱の列の前に立つと、どの蓋もわずかに角度を変え、私の方を向く。
色のついた蓋が少しずつ寄り、合わさり、黒の輪郭に溶けていくのが見える。
分別できないものは、いつだって、最も燃えにくいかたちで残る。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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