呼吸する壁

写真怪談

その空き部屋は、ビルの管理会社のあいだでも厄介者扱いされていた。
テナントが退去して以来、なぜか工事が中断されたままになり、仮設の黄色い壁だけが立てられている。電気は通っているが使う予定はなく、ただ放置され、時おり巡回の警備員が足を踏み入れるだけの空間だった。

「入った瞬間にわかるんですよ。空気が違うんです」
そう語ったのは、夜勤明けの警備員の一人だった。

廊下から扉を開けると、がらんとした部屋のはずなのに、湿った冷気がふっと頬に触れる。
まだ夏も遠い季節で、外気は乾いているのに、そこだけ水分を含んだ地下室のような匂いが漂っていた。

彼が最初に気づいたのは、壁の異様な質感だった。
黄色い石膏ボードの表面に、ところどころうっすらと黒ずみが浮かんでいる。
指先を近づけると、そこから冷たい気配がにじみ出す。
──壁の中に、空気がある?
そう思った瞬間、壁全体がごくわずかに盛り上がった。

呼吸のように、膨らみ、縮む。
目の錯覚だろうと瞬きするが、そのたびに確信が強まっていく。
「壁が、生きている」

やがて、それに呼応するかのように音が始まった。
コン……コン……。
乾いた叩く音。だがそれは一点からではなく、部屋の中を移動していく。
まるで何者かが壁の内側を歩き回りながら、一定のリズムで叩き続けているようだった。

怖気立った彼は背を向け、窓に目をやった。
そこには四角く並んだ曇りガラスが、夜の街灯をぼんやりと反射している。
……はずだった。

ガラスの一つひとつに、黒い影のような模様が浮かんでいる。
しかもそれは、立ち位置を変えても映り込みではなく、常にそこに留まっている。
気づけばそれは「一列に並んだ眼」に見えてきた。
外から覗き込んでいるのではなく、ガラスの奥、つまり内側からこちらを監視しているかのように。

「見られている」
その確信に背筋が凍り、彼は慌てて部屋を飛び出した。

──翌朝、恐る恐る戻ってみると、壁の呼吸も、ガラスの影も、消えていた。
ただひとつ、部屋の中央に残されていたものがある。

床に擦り切れた跡が、丸く輪を描いていた。
それは椅子を引きずったような直線的な跡ではない。
人間が同じ場所を延々と歩き回り、ついに木の床を円形に削り取ってしまった痕跡だった。
昨夜、部屋を一周するように鳴っていた音と、完全に一致する軌跡だったのだ。

管理会社に報告したが、担当者は「特に異常はない」の一点張り。
工事も再開されず、部屋は今も取り残されている。

ただ、夜になると決まって、廊下を歩く者の耳にあの音が届く。
コン……コン……。
壁が呼吸に合わせて叩かれるように。
確かめようと扉を開けた者はいるが、皆、長居することなく立ち去ってしまう。

あの壁の中に何が詰まっているのか。
誰も知ろうとしないまま、ただ部屋は「息をし続けている」。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

タイトルとURLをコピーしました