あの建物の脇の路地は、昼でも少し薄暗かった。外壁には太いダクトが何本も這い、向かいの電柱から伸びた線が頭上で交差している。風がない日でも、変圧器の低い唸りだけは途切れない。だからこそ、最初の異変はすぐわかった。
正午を少し回ったころ、その唸りが二拍ぶんだけ、すっと消えた。
車の音も人の足音も聞こえていたのに、頭の真上の電気だけが抜け落ちた感じだった。思わず見上げると、外壁をまっすぐ上がるいちばん太いダクトに、見覚えのない継ぎ輪が一つ増えていた。錆びた支持金具のすぐ下、本来なら何もない滑らかな胴の途中に、帯のような段差ができていた。
気のせいだと思った。だが翌日も、その次の日も、同じ時刻に二拍の無音が来た。そのたび継ぎ輪はひとつずつ下へ降りた。上にあったものが増えるのではない。昨日まで何もなかった位置に、今日だけ新しい輪が巻かれている。支持金具の間隔は変わらないのに、金具と金具のあいだだけが、少しずつ短く詰まっていった。
輪が三階の窓の高さまで来た日、磨かれた横引きのダクトに映る景色がおかしくなった。実際の窓は閉まっているのに、銀色の腹の中では、その窓だけがわずかに開いて見えた。空を横切る電線も一本足りなかった。顔を近づけると元に戻る。離れて見上げたときだけ、映り込みの中で何かが建物の内側から外を覗いているような暗さが残った。
さらに二日後、輪は私のいる二階の窓の外まで降りてきた。閉めきった室内のガラスの内側に、灰色の粉がうすく円を描いていた。子どもの落書きの輪ではなく、何か丸いものが長く押し当てられていたような、均一でいやに正確な円だった。拭き取っても、翌日の無音のあとには、同じ円が指一本ぶん低い位置にまた現れた。窓の鍵まで、少しだけ内側へ曲がっていた。
管理人が電気屋を呼んだ。変圧器にも配線にも異常は出ていない、と男は首を傾げた。ちょうどそのとき、また二拍の無音が落ちた。頭上の線がいっせいに緩み、ダクトの奥から、金属でも喉でもない鈍い擦過音が一度だけ響いた。私たちが見ている前で、支持金具のすぐ下の胴に細い段差が浮き、灰をまぶしたような新しい継ぎ輪が、金属の皮膚の下から押し出されるみたいに現れた。電気屋は工具を取り落とし、そのまま二度と来なかった。
その夜、二階の部屋の窓を内側から板で塞いだ。けれど翌昼、無音は板越しにも来た。板の中央に、円い湿りがじわりと滲み、そのまわりへ灰色の粉が縁取りのように溜まった。外から見れば窓は完全に隠れているのに、内側にだけ、ちょうど外壁のダクトと同じ太さの円が残っていた。
いまもあの路地を通ると、外壁のダクトには設計図より一つ多い継ぎ輪が見える。どこの業者も増設の記録はないと言う。それでも正午になると、電柱の唸りが二拍だけ途切れ、その直後、銀色の横引きダクトには、実際より一階ぶん低い位置からこちらを見返す窓が映る。覗き込むと消えるのに、離れるとまた現れる。だからあの道では、誰も長く見上げない。継ぎ輪が次にどの高さへ来ているのか、覚えてしまうからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

