送風跡

写真怪談

夏の夜、終電が引き上げたあとにホーム脇から屋根を点検する仕事をしていた人の話を聞いた。
銀色の通勤電車のうち、「弱冷房車」と表示のある一両だけは、電源を落としてしばらく経っても、連結部寄りの屋根が妙に湿って見えたという。箱形の機器も、細い配管も、黄色い持ち手も、昼の熱を残して生ぬるいはずなのに、そこだけは軍手越しでも骨に触るように冷たかった。

最初は排水の戻りか何かだと思っていたらしい。だが翌朝、跨線橋の上から見下ろすと、ざらついた黒い塗装の上に、細長い濡れ筋が一本ついていた。配管の真下をなぞるように伸び、持ち手の手前で途切れている。水滴の落ち方ではなく、何かが腹を擦って進んだような艶だった。

古い検修員が、その車両では帰り際に持ち手の数を見ないほうがいい、と言ったそうだ。
数が変わるわけじゃない。ただ、濡れている持ち手の位置が、毎晩ひとつずつ連結側へ寄っていくからだという。
笑い話めいていたが、実際にそれは三晩続いた。最初の晩は中央。次の晩はその隣。三晩目には、車両の継ぎ目に一番近い持ち手だけが、朝まで白く曇っていた。

その頃から、優先席のあたりで変な苦情が出はじめた。
寒いのではない。弱冷房車だからむしろ涼しさは控えめなはずなのに、座っていると肩の後ろだけがじっとり濡れる、と年寄りが言う。車掌が確認しても、吹き出し口の温度は正常だった。
ただ、終点に着いて車内の灯りを落としたあとでも、その窓だけがしばらく薄く曇ったままだったそうだ。

気味が悪くなって、その人は一度だけ、送電を切ったあとのホームに残った。
夜半を回るころ、車庫へ回送する前の車両は完全に静まり返っていた。ファンの音も、コンプレッサーの振動もない。なのに屋根の小さな灰色の箱の継ぎ目から、冬の朝みたいな白い息が、すう、と一本だけ漏れたという。
次の瞬間、黄色い持ち手が連結部へ向かって順に白んだ。霜というには薄く、指で触れたガラスの曇りみたいな白さだった。

そして、その冷えが最後の持ち手に届いた時、下の車内でいっせいに窓が曇った。
優先席の並ぶ窓だけではない。通路側の、誰も顔を寄せるはずのない高さにも、丸い曇りが五つ並んだという。席は四つしかないのに、曇りはひとつ多かった。
ドアを開けると、座面は乾いていた。濡れていたのは背もたれの上だけで、ちょうど後頭部が長くもたれかかったような位置に、黒い湿りが残っていた。

さらに妙だったのは、屋根の濡れ筋だった。
連結部の蛇腹の手前で終わると思っていたそれが、その夜だけは継ぎ目を越えていた。隣の車両の屋根へ、ほんの十数センチぶんだけ、同じ艶の線が続いていたそうだ。
弱冷房車の表示はその一両だけなのに、翌朝は隣の車両の窓まで、内側から指でなぞったような曇りが残っていた。

報告書には「異常なし」と書かれたという。冷房装置に故障はなく、漏水も確認できなかったからだ。
ただ、その人はその後、夏場の始発前に跨線橋から屋根を見下ろすのをやめた。まだ誰も乗っていないはずの時間なのに、ざらついた黒い屋根の上には、ときどき冷えた跡だけがある。
箱から箱へ、持ち手から持ち手へ、何かが一晩かけて這っていったとしか思えない形で。

いまでも弱冷房車は走っている。
暑い朝ほど、優先席の窓だけが出発前にうっすら白む日があるらしい。
あれは冷気の通り道ではなく、夜のあいだ車内に入りきれなかったものが、屋根の上を移動した送風跡ではないか——そう言っていたが、その人は最後まで、何が一席ぶん多かったのかだけは言わなかった。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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