寺の冬の手伝いに入るようになって、ひとつだけ、理由を教えてもらえない習わしがあった。
境内の庭石の上に、片目の欠けた小さな蛙と、二匹の亀の石が置いてある。池でも墓でもない、ただの石のくぼみだ。そこへ、その年最初の寒さが来ると、誰かが必ず柚子をひとつ供える。置くのは檀家のこともあれば、寺の者のこともあるらしい。ただ、置かれたあとの柚子だけは、香りが抜けるまで触るな、と古い手伝い衆は口を揃えた。
馬鹿らしいと思っていた。
ある朝、落ち葉を掃きながらその柚子を片づけた。傷んでもいないし、鳥につつかれた跡もない。まだ鮮やかな黄色で、皮にも張りがあった。ただ、手に取った瞬間だけ妙だった。見た目の倍ほど重い。冷えきっているのに、石みたいな冷たさで、果実の弾みがなかった。
柚子の下の石には、薄く白い粉が輪になって残っていた。霜ではない。爪でこすると、乾いた皮膚みたいに細かく崩れた。
その日の夕方、ふと亀の甲羅を見て、箒を持つ手が止まった。
小さいほうの背中の質感が変わっていたのだ。朝までざらついた石目だったはずなのに、細かな孔が無数に浮き、柚子の皮そっくりの凹凸になっていた。逆に、持ち帰って庫裏の流し台へ置いておいた柚子の表面には、甲羅の筋みたいな浅い線が、三本うっすら走っていた。
一晩で終わりではなかった。
翌朝には大きい亀の背も同じように変わっていた。触れると、見た目は石なのに、指先だけがわずかに沈む。冷たいはずなのに、奥のほうだけ生ぬるい。
蛙の欠けた目の穴には、いつの間にか黄色い湿りがにじんでいた。果汁ではない。もっと粘っていて、柚子の皮をむいた裏側の白い筋を、濡らして溶かしたような色をしていた。近づくと、あの強い香りがした。供えた実からではなく、石の穴の奥からしている匂いだった。
さすがに気味が悪くなって住職の奥さんに話すと、叱られるでも驚かれるでもなく、ただ低い声で言われた。
「あれは冬の最初の皮なんです」
意味が分からず黙っていると、奥さんは庭石を見たまま続けた。
「昔から、あそこは寒くなると皮を借ります。柚子を置いておけば、それで済む。香りが抜ける前に持っていくと、触ったものから順に、代わりを探すんです」
慌てて流し台の柚子を持ち上げた。
昨夜よりさらに重くなっていた。包丁を入れた瞬間、柚子の香りだけはたしかに立った。けれど、中には房がなかった。果汁も種もない。内側は空洞で、壁の裏にだけ白い筋がびっしり貼りつき、底に湿った灰色の粉が少し溜まっていた。果実を割ったというより、石の抜け殻を切ったみたいだった。
その空の柚子を、私は元の場所へ戻した。
二匹の亀はもう元の石肌に近づいていたが、かわりに柚子の表面が、見るたび少しずつ変わっていった。甲羅の筋が深くなり、ところどころに石の風化みたいな白い斑が出る。そして三日目の朝、柚子の上には、はっきりと指紋の渦が五つ浮いていた。並び方まで、私の右手と同じだった。
あの日から、線香の灰が指にうまく乗らない。
読経の本も、紙札も、以前より少し滑りやすい。指先の腹をよく見ると、細かな溝が薄れて、その代わりに柚子の皮のような孔が増えている。
冬の朝、あの庭石の前を通ると、欠けた目の奥だけがいつもしっとり黄色い。供えられた柚子はもう誰も片づけない。
香りが抜けきるころには、表面が石のように重たく鈍り、代わりに亀の背や蛙の口もとが、少しだけ新しい皮を得たみたいに見えるからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

