昼の空がやけに澄んでいて、青が硬い板みたいに見える日だった。白い外壁の建物の屋上に、柵が一直線に伸びている。外階段は日差しを跳ね返して、どの段も同じ明るさで、影が浅い。電柱の線が空を切り分け、庭木の濃い緑だけが下でまとまって揺れていた。
その景色は、たぶん「よくある住宅街」だったはずなのに、僕はいつも同じ地点で足を止めるようになった。理由は、屋上だ。柵の内側に、誰かが立っていることがある。最初は見間違いだと思った。風で洗濯物が立ち上がったとか、柵の向こうの何かが重なって人影に見えただけだとか。
でも、二度目のとき、僕は「服装」を見た。喪服だった。黒い礼服の上下に、黒いネクタイ。手には黒い革手袋。昼の光の下で黒だけが妙に沈み、周囲の白壁や青空から切り抜かれたみたいに浮いていた。
男は、屋上の端でじっとしていた。顔はよく見えない。距離のせいだけじゃない。見ようとすると、視界の中心が薄く濁って、焦点が合わない。写真のピントがわずかに外れたときの、あの感じに似ていた。僕が目を細めた瞬間、男の頭がゆっくりこちらへ向いた。
目が合った、と思った。なのに、目がどこにあるか分からない。顔全体が黒い布で包まれているのか、それとも影になっているのか。喉がひゅっと鳴って、僕は呼吸の仕方を忘れた。次の瞬間、屋上の男が「一段」下がった。
いや、下がったというより、柵の内側にあるはずの床が、男の足元だけ抜けたみたいに見えた。礼服の裾がすっと沈み、靴の先が消え、それでも上半身は同じ高さで止まっている。身体だけが、空間に食い込んでいく。見てはいけない、と頭のどこかが言ったのに、視線が外せなかった。
男が、もう一段、沈んだ。礼服の肩の位置が、さっきよりわずかに低い。喪服の黒が、屋上の白い縁を舐めるように近づいてくる。僕はようやく瞬きをして、視線を庭木に落とした。葉が風に揺れている。普通だ。電線も普通に張っている。何も起きていないように見える。
もう一度、屋上を見上げた。男はいなかった。
その場で立ち尽くした僕の耳に、カチ、と硬い音が届いた。屋上の手すりのどこかで金属が触れ合ったような、乾いた音だ。外階段の踊り場にある小さな照明が、昼なのに一瞬だけ点いた気がして、背中に汗が滲んだ。
帰ってから、気持ちを落ち着けるために、地図アプリでさっきの建物を探した。ストリートビューの画面を開き、青空と白壁と、屋上の柵が入るところでスクリーンショットを撮った。画像の中に『喪服の男』はいなかった。代わりに、妙な違和感が残った。
柵の縦棒の数が、合わない。
ぱっと見は同じだ。けれど、僕がいつも数えてしまう場所――屋上の角からアンテナ皿までの間――そこに並ぶ縦棒が、一本だけ「余計」だった。目が慣れてくると、余計な一本が主張して、他の棒の間隔を狂わせているのが分かった。まるで、その一本だけが後から差し込まれたみたいに、わずかに白が濃い。
翌日、確かめに行った。青空は同じで、庭木も同じだった。屋上の柵も同じに見える。僕はまた数えた。余計な一本は、ない。代わりに、アンテナ皿の向きが変わっていた。昨日より少しだけ、こちらを向いている。
その夜、夢を見た。外階段を、黒い礼服がゆっくり降りてくる夢だ。足音はしない。代わりに、手すりをなぞる音だけが、カチ、カチ、と一定の間隔で鳴る。踊り場で立ち止まり、黒い手袋が柵の一本を握る。握られた棒は、白い塗装の下からじわじわ黒ずんでいき、やがて一本だけ、夜の中で濡れたみたいに光る。
起きて、夢だと分かっても、指先が冷たかった。窓の外に電線が見えた。風で揺れて、黒い線が重なった瞬間、結び目みたいな形ができた。ほどけるはずのない結び目。僕は目を逸らし、カーテンを閉めた。
数日後、郵便受けに黒い封筒が入っていた。差出人はない。宛名もない。中身もない。ただ、封筒の内側にだけ、白い粉で小さな靴跡が押されていた。屋上で見たはずの、あの革靴の先の形に似ていた。僕は封筒をゴミ袋に入れようとして、手が止まった。
白い粉が、指に付いている。払っても落ちない。水で洗っても、残る。粉じゃない。塗装の欠片みたいに、白く硬い。爪でこすると、皮膚がひりつくのに、白だけが薄く伸びた。
その白を見ていると、屋上の柵が思い浮かぶ。一本だけ余計だった縦棒。喪服の男が沈んでいった場所。僕の指先に残る白は、もしかすると――
そんな考えが浮かんだ瞬間、どこか遠くで金属が触れ合う乾いた音がした。カチ。カチ。一定の間隔で、こちらに近づいてくるみたいに。
僕は窓の外を見ない。屋上も見ない。電線の結び目も数えない。けれど、晴れた昼の青空だけは、どうしても目に入ってしまう。硬い板みたいな青の下で、白い建物の屋上が、いつもより少しだけ高く見える日がある。
その日は決まって、柵の縦棒の間隔が、ひとつ分だけ歪んで見える。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


