消火ホース逆流

写真怪談

サイレンの音が途切れずに重なっていた。何かが燃えたらしい、と人は言う。けれど私には、燃えているのが火なのか、騒ぎそのものなのか、判別がつかなかった。

私は自宅マンションの三階から、その騒ぎを見下ろしていた。見下ろせる距離なのに、私にだけ遠かった。人の視線が集まる一点がある。そこへ向かう足取りと、そこで交わされる合図と、緊張だけがはっきりしている。

黄色い送迎バスが、流れを止めた車列の中に紛れていた。色だけが場違いに明るく、動けないまま、ただそこにいる。

窓ガラスの反射に、回転灯の赤が点滅しては消える。消える瞬間だけ、車内の座席が見えた。

空っぽのはずの座席が、濡れていた。

濡れている、というより、誰かが座った跡みたいに沈み、黒ずんでいる。布地に、すすを湿らせて押しつけたような跡が点々と並んでいた。小さな手形なら丸くなるはずなのに、そこにあるのは、親指の位置が違う。指が三本しかない。掴んだ跡ではなく、押しつけて離れた跡。

私は息を止めた。見間違いだと思いたかったのに、赤い光が消えるたび、三本指の跡だけが輪郭を増す。火の赤ではない。熱でもない。もっと古い、湿った赤だ。

そのとき、地面を這うホースが動いた。

人が踏んだ弾みではなかった。水圧の揺れとも違う。ホースの途中が、喉仏みたいに盛り上がって、沈む。盛り上がりはゆっくりと、現場とは逆の方向へ移動した。私のいるほうへ戻ってくる。

消火は火へ向かう。なのに今のは、何かがホースの中を戻ってきたみたいだった。

誰かが何事か叫び、器具が叩かれ、周りの動きが一瞬だけ乱れた。けれど視線はすぐに元へ戻る。彼らが見ているのは圧力と安全だけで、ホースの「中身」は見ていない。

私は無意識にスマホを構え、ズームした。黄色い車体の窓。座席の濡れた沈み。三本指。画面に閉じ込めれば、正気のまま確かめられる気がした。

ズームした瞬間、バスの後ろの窓に、白いものが現れた。

影ではない。反射でもない。窓の内側に、顔がある。濡れた布みたいに貼り付いた白い面が、窓枠に沿って、少しずつ下がっていく。下がるというより、垂れる。鼻も口も曖昧なまま、目だけが二つ、黒い染みになって、こちらを見上げている。

喉が鳴った。その一音に合わせるように、ホースがまた脈打った。今度は盛り上がりが二つになり、前後して進む。まるで、ホースの中を誰かが這って戻ってくる。

バスの座席の沈みが、一列ぶん、順番に深くなった。後ろから前へ。誰かが座り替えながら進んでいる。

そして、ホースがぷつりと細くなった。

外側はそのままなのに、太さが一瞬だけ「中で」しぼんだ。水が抜けたのではない。中身が移った。その移った先が、私のいるほうだと、なぜか分かった。

窓ガラスの内側が、冷たく曇った。

外気で曇る温度じゃない。曇りの中心に、三本指の跡がゆっくり浮かび上がった。内側から押されている。私の部屋の中に、濡れたものがいる。

私は後ずさった。遠くのサイレンが薄れ、代わりに水の音が聞こえた。ホースを流れる水音じゃない。水が、肺に入るときの音に似ていた。

三本指の跡が、もう一つ増えた。増えた場所がガラスの端で、まるで境界を確かめているみたいだった。私はカーテンを引き寄せ、ガラスを隠した。

隠した瞬間、外が一枚の写真みたいに固定された。

回転灯は点滅しているはずなのに、光が動かない。人も車も止まって見える。唯一動いているのは、ホースの盛り上がりだけだった。盛り上がりが連なり、蛇みたいに、こちらへ向かって進んでくる。

私はスマホの画面を見た。さっき撮ったはずの動画が停止している。停止画面の中で、白い面だけが窓に貼りつき、目の染みが、こちらを見ている。

画面の下に出ている日付が、昨日になっていた。

再生ボタンを押しても動かない。指が触れるたび、窓の曇りが濃くなる。三本指の跡が、ガラスを越えて、布に滲んでいく気がした。

突然、外が動き出した。音も光も速度を取り戻す。下では騒ぎが収束へ向かい、人の動きが整っていく。私の部屋の空気も、ようやく現実に戻ってきた。

終わったのだと思った。

私はカーテンを少しだけ開けた。曇りは消えていた。三本指の跡もない。安心しかけた指先が、スマホの保存データに触れた。

動画は残っていた。日付は昨日のまま。再生すると、映っていたのは外の騒ぎではなく、私の部屋の窓ガラスだった。

内側から、三本指がゆっくり押してくる映像。

映像の最後、曇りの向こうに、黄色い車体が一瞬だけ映る。私の部屋の中へ、送迎バスが来ているみたいに。カメラは勝手に窓枠の上端をなぞり、最後に一点で止まる。

そこに、白い面が貼りつく。

翌朝、窓枠の上端に薄い黒ずみが残っていた。すすを濡らして拭き取ったみたいな跡。触れると湿っているのに、冷たくない。息を吸うと、火事場の匂いではなく、濡れた布の匂いがした。

小火は消える。けれど、消火に集まるものは、必ずしも火だけを相手にしていない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

¥1,540 (2026/02/04 10:51時点 | Amazon調べ)

 

タイトルとURLをコピーしました