夕方の都内の住宅密集地で、古い家屋の解体工事が進んでいた。重機の音、鉄骨のきしみ、粉塵の匂い。普通なら鳥が寄りつかないはずの場所なのに、街灯のアームと電柱の金具に、スズメが群れていた。
数が多いだけなら、餌でもあるのかと思える。でも、あの並び方が妙だった。身を寄せ合うというより、押し当てる。金具に、電柱に、白い塗装のアームに――まるで“隙間を塞いでいる”みたいに、じっと貼り付いている。
見上げたとき、羽ばたく一羽がいた。逃げるためじゃない。群れの列に戻ろうとしているのに、空中でいったん止まる。羽音が聞こえない。周りはうるさいのに、そこだけ薄い膜が張ったみたいに、音が遠い。
電柱の中ほどに、小さな丸い穴があった。点検用か、何かの取り付け跡か。ありふれた穴のはずなのに、そこだけ黒さが違う。影ではない。夕方の陰りでもない。土の中を覗いているような、湿った黒。
工事の音が一瞬途切れた瞬間、スズメの列がいっせいに首をすくめた。鳴かない。羽ばたかない。穴に向かって、静かに“息を合わせる”。私はその沈黙に引っぱられて、反射的に写真を撮った。
帰って見返すと、写っているのは空と電柱と街灯とスズメたち――ただそれだけだ。変な影も、顔も、余計なものはない。なのに、写真を拡大していると、部屋の生活音が薄くなる気がした。換気扇の回転が遠のき、時計の秒針が、壁の向こうへ下がっていく。
気のせいだと思って画面を消した途端、音が戻った。もう一度写真を開くと、また薄くなる。耳がおかしくなったのかと笑ったが、笑い声だけが自分の頭の中で鳴って、口から出た音が部屋に落ちない。
次の夕方も、解体現場の横にはスズメがいた。相変わらず鳴かない。相変わらず穴を見ている。現場はさらに壊されていて、壁が剥がれ、部屋の輪郭が露わになっていた。居間だったらしい場所の、壁紙の裏が見える。そこで暮らしていた“時間”が、薄皮みたいに剥がされている。
そのとき、穴から風が出た。
実際の風じゃない。頬に当たる冷えでもない。音のない圧力だけが、こちらへ押し出される。耳が詰まり、唾を飲み込んでも抜けない。その圧力に合わせて、スズメが一羽、電柱の穴の前に滑り込んだ。吸い込まれたわけじゃない。穴の黒に“馴染んだ”だけだ。輪郭が消えて、そこに黒が増えたように見えた。
直後、解体現場の奥で、誰かが咳をした。距離のある咳なのに、すぐ隣で聞いたみたいに生々しい。次に、子どもの笑い声がした。現場に子どもはいない。作業員は無言で手を止め、互いの顔を見た。
それでも音は続いた。笑い声、食器の触れる音、引き戸の擦れる音。どれも、今この場所にあるはずのない生活の音。崩されている家の“中”からではない。電柱の穴から、夕方の空へ、薄く漏れている。
私はまた写真を撮った。証拠が欲しかった。帰宅して開いた瞬間、部屋の音がごそっと抜けた。スマホのスピーカーからも、何も鳴らない。通知が来ても無音。家の中だけが、水に沈めたみたいに静まり返る。
写真の中の電柱の穴が、前より濃い。黒が深い。深さの方向が、画面の奥ではなく、こちら側へ向いている。
その夜、眠ろうとすると、枕元で小さな羽音がした。開けた窓から入ったのかと思って目を開けても、何もいない。ただ、天井の隅が暗い。暗さの質が、あの穴と同じだ。照明をつけても、暗さだけが残る。
翌朝、天井の暗さの真下に、紙屑みたいなものが落ちていた。拾ってみると、薄い土と、細い藁と、黒い糸のようなものが絡んだ塊だった。巣材だ、と一瞬で分かった。スズメの巣の、あの雑な温かさ。しかし、触ると冷たい。土の匂いがする。解体現場の粉塵の匂いじゃない。湿った、掘り返した土の匂い。
それから夕方になると、家の中に“止まり木”が現れるようになった。
見える枝じゃない。音が止まる場所だ。台所の隅、廊下の曲がり角、洗面所の鏡の前。そこを跨いだ瞬間だけ、周囲の音が消える。自分の呼吸すら遠い。跨がずに眺めていると、そこに何かがとまっている気配がする。小さな体重。羽のすれる気配。けれど、目を凝らしても空気しかない。
写真を開くと、その止まり木は濃くなる。閉じると、薄くなる。私は怖くて、でも確かめたくて、毎夕、同じ写真を開いてしまう。
最後に見たとき、写真の中のスズメの列が、ほんの少しだけこちらへ向いていた。顔ではない。視線でもない。沈黙の向きが変わった、としか言えない。
そして、写真を閉じても、部屋の音が戻らなかった。
静けさの中で、天井の暗さがゆっくり広がっていく。そこに、とまる。とまってしまった。夕方の住宅街で、工事の音を押さえつけていた群れは、いま、私の家の中で“鳴かない場所”を育てている。
外では、スズメが鳴いているはずだ。窓の向こうの世界は、まだ賑やかなはずだ。
なのに、私は聞こえない。
代わりに、電柱の穴の湿った黒だけが、耳の奥に残っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

