その写真は、深夜三時の歩道だった。
歩道と車道の境目に等間隔で並ぶ、コンクリートの杭。モノクロの画面では、杭よりも影のほうが主役に見えた。
一本の影が、別の影を横切っている。交差点でもないのに、足元にだけ“交差”がある。見ていると、そこが結び目みたいに締まって見えた。
写真を見せてくれた人は、ただ「影の交差が面白くて」と言った。
私は頷いて、スマホを返しかけた。
その瞬間、画面の中で影が一度だけ、ぎゅっと縮んだ。
錯覚だと思った。モノクロの粒子がざわついただけだ、と。
でも、次に指で拡大したとき、杭の影の先端が、歩道の目地にぴたりと噛み込んでいた。
交差しているのは影だけじゃない。舗装の目地も、そこだけ細かく割れて、結び目に縫い寄せられている。
「これ、どこ?」
そう聞いたら、相手は場所を言う前に、妙なことを付け足した。
「行くなら、踏まないほうがいいよ。交差してるとこ」
冗談にしては口調が硬かった。
私は笑って流したが、翌週、仕事帰りに同じ道を通ることになった。終電を逃して、タクシー代を惜しんだ。
時計は二時五十分。街灯が少なく、光は斜めから刺さっていた。
あの写真と同じ並びの杭が、目の前に現れた。
四本、五本、遠くへ続く。
影が歩道に長く伸び、交差しているところがある。ちょうど写真の“結び目”の位置だ。
踏まないほうがいい。
そう思ったのに、足が勝手にそこへ寄った。
交差する影の上に、靴底が触れた瞬間。
冷たさではなく、乾いた圧が足首に巻き付いた。
布で縛る圧じゃない。目に見えない針金が、皮膚の上を探って結び目を作る感覚。
私は反射的に足を引いた。
引けない。
杭は何もしていない。影はただ黒いだけなのに、黒の下で“締まる”音がした。きし、と。
次の瞬間、街灯の明かりが一つ、消えた。
周囲の光が薄くなるのではなく、私の足元だけが、写真のモノクロに落ちたみたいに色を失った。
影が増えた。
杭の影だけじゃない。杭がないはずの場所からも、影が伸びている。
目の前の歩道には、杭が四本見える。なのに影は五本分ある。
一本分が欠けているのではなく、一本分が“余っている”。
余った影が、私の足首に輪を作った。
輪の端は、交差点のように重なり、結び目へ吸い込まれていく。
私は声を出したが、夜の空気に音が乗らない。
代わりに、遠くから足音が返ってきた。私の足音だ。
二拍遅れて、同じリズムで、同じ重さで。後ろから。
振り向くのが怖くて、前へ倒れ込むように走った。
影は伸び、縮み、私の足に絡みつくたびに、舗装の目地がきゅっと鳴った。
街角の静けさが、足元でだけ“縫い直されて”いく。
逃げ切ったと思ったのは、交差が見えなくなったところだった。
明るい交差点の手前、人通りのある大通り。コンビニの灯りが白く眩しい。
そこでようやく足首の圧が解け、私は膝に手をついた。
呼吸が落ち着いたころ、足首が熱を持って痛み出した。
靴下をめくると、皮膚に薄い黒ずみが出ていた。
影が輪を作った場所と同じ形。
結び目の跡――交差した二本の線が、皮膚の上に“X”を縫い込んでいた。
朝、写真を送ってきた相手に連絡した。
「昨日、あそこ通った。踏んだ」
返事はすぐに来た。
「見せて」
私は足首の写真を送った。
相手はそれを見て、短く打った。
「やっぱり。杭の数、合ってないでしょ」
意味がわからず、例のモノクロ写真をもう一度開いた。
杭は四本並んでいる。影も四本分のはずだ。
なのに、画面の中では、交差する影の先にもう一本だけ、薄い影が写っていた。
杭のない場所から伸びる、五本目の影。
撮ったときには、そんなものはなかったはずだ。
でも写真は、何事もなかったように“今の正しさ”を主張している。
そして、結び目は前より締まって見えた。
その夜、私は眠れずにベッドの中でスマホを見続けた。
午前三時。
通知が一つ鳴った。
送られてきたのは、同じ歩道の写真だった。
ただし、撮影者の手元は一歩手前に引いている。
写真の手前、ぼやけた位置に杭が一本増えていた。
本来なら画面外にあるはずの、近すぎる杭。
そして、その杭の影は、まっすぐ私の足元へ伸びていた。
画面の下端で、影が消えている場所。
そこが、ちょうど私がベッドで足を投げ出している位置と重なって見えた。
足首が、また締まった。
誰も触れていないのに。
結び目の“X”が、皮膚の下でゆっくり回転するように痛んだ。
私は耐えきれず、スマホを床に投げた。
画面は割れなかった。
代わりに、部屋の暗がりで、杭が擦れるような低い音がした。
布団の端が、持ち上がっている。
誰かが入ってくるように盛り上がるのではなく、下から押し上げられている。
影だけが、そこに形を作っていた。
円柱の、影。
杭の影。
私は息を止めたまま、足を引っ込めた。
その瞬間、床の上で“影の輪”がほどけ、黒がすっと引いていった。
布団の端も沈む。
音も消える。
翌日、私は足首の“X”を隠して仕事へ行った。
でも、歩くたびに思い出す。
あの交差を踏んだときの、乾いた締まり。
いまでも深夜に道路を歩くと、杭の並びが目に入る。
影が長く伸びるたび、私は数える。
杭の数ではない。影の数だ。
一本でも余っていたら、そこにはもう、杭が立つ場所が空いている。
誰かの足首に結び目を作るために。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


