ある夜、商用網で「耐量子セキュリティ」の実証が行われ、57.6Tbpsの大容量伝送が“遅延なく”通った、と発表されたそうです。量子鍵配送と耐量子計算機暗号を併用し、物理層と上位層の複数レイヤーで守る――そういう多層の構成だった、と。
その翌日、片付けの手順に従って、試験用の光パスを戻し、接続部を清掃し、端末を通常構成へ戻す作業があったそうです。そこで、ひとつだけ“汚れ”のようなものが見つかったといいます。
光ファイバーの端面を顕微鏡で覗くと、透明なはずの面の中央に、ごく薄い輪が浮いていたそうです。皮脂でも粉でもなく、曇りの輪。拭いても取れず、乾いた室内なのに、そこだけが濡れた膜のように光った、と。
輪の外周には、等間隔の細かな欠けがありました。欠けは全部で百。どれも同じ角度で揃い、まるで目盛りのように並んでいたそうです。中継なしで百キロ程度――その数字が、妙に重なって見えた、と聞きます。
交換すべきだ、という判断は出たそうです。ただ、その前に、短時間だけ再度通電し、状態を確かめることになったといいます。前夜に57.6Tbpsが通った道が、まだ生きているかどうか。それだけの確認のはずでした。
二度目の通電は、発表に記された時刻に合わせたそうです。午後八時四分。装置を立ち上げ、鍵をやり取りし、暗号を重ね、意味のない負荷を流す。人が見張るのは、ただ接続部の挙動だけ――そのはずだった、と。
その瞬間、端面の輪が、濃くなったそうです。濃くなった、というより、輪の縁だけが“濡れたまま生きている”ように艶を帯び、百の欠けが一つずつ黒く締まった、と。顕微鏡越しには、それが睫毛の列に見えたそうです。数えてしまった人がいた、といいます。百本。
輪の内側――透明であるはずの部分には、黒ではないものが現れたそうです。点ではなく、丸い膜。薄く、湿って、光を返し、中央に小さな陰を抱える。瞳孔のような陰が、こちらの照明を嫌うように、わずかに縮んだ、と。
次に起きたのは、“視線”でした。
顕微鏡は固定されていたそうです。端面も動いていない。けれど、その膜の中の陰が、覗き込む人の目の位置に合わせて、ゆっくりと寄ってきた、と言います。焦点を合わせ直しても、像のずれではない。陰のほうが、覗く側へ合わせてくる。まるで、こちらを見返すために。
その時、室内の低い送風音に混じって、ひとつだけ小さな音がしたそうです。「こつ」。濡れた硬いものが、ガラスに触れたような音。顕微鏡のどこにも異常はなく、誰の手も触れていなかった、と。
作業者は反射的に、光を落としたそうです。通電を切り、キャップを被せ、接続を塞いだ。見えないようにすれば収まる――そう考えたのかもしれません。
しかし、キャップを被せた瞬間に、また「こつ」と鳴ったといいます。今度は、すぐ目の前で。キャップ越しに覗くと、内壁に同じ輪が“映って”いたそうです。百の欠け。濡れた艶。睫毛のような列。中央の膜。こちらを探るように寄ってくる陰。
端面にあったものが、内側へ移ったのではなく――覗いた側が、閉じ込められたように見えた、と言います。
封緘して保管することになったそうです。開ける理由が、言葉にならないからです。説明するほど、誰かに「見て確かめろ」と言わせてしまうからです。
ただ、保管箱のラベルには、日付も場所も書かれていないと聞きます。時刻だけ。午後八時四分。
その時刻になると、封緘テープの内側が、ほんの少しだけ曇るそうです。水滴にはならない。指でなぞっても濡れない。けれど、曇りの中心だけは、いつも薄く透けて見える、といいます。
まるで、向こう側が、こちらの覗き穴を作っているように。
次に開けた時、あの百の睫毛が、まだ内側に並んでいるかどうか。確かめた人はいないそうです……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
KDDIなど4社、商用網で「耐量子セキュリティ」の実証実験 57.6Tbpsの大容量伝送に成功 – ケータイ Watch
KDDIなど4社、商用網で「耐量子セキュリティ」の実証実験 57.6Tbpsの大容量伝送に成功KDDIとKDDI総合研究所、ノキアソリューションズ&ネットワークス、東芝デジタルソリューションズは18日、商用ネットワーク上で「耐量子セキュリティ技術」を用いた大容量データ伝送の実証実験に成功したと発表した。

