昼の光をそのまま床に落とす、都心の行政庁舎の展望デッキ。ガラスの外は乾いた青で、遠い街の輪郭が薄い霞の中で幾重にも重なって見えた。
向かいのもう一つの展望フロアが、箱みたいに浮かんでいた。窓の内側に人が集まり、スマホを掲げたり、誰かが指を伸ばして説明したりする。高い場所の、軽いざわめき。観光の音。
不思議なのは、そのすぐ下だった。展望フロアの下の階は、窓の色が違う。最低限の照明だけが点いているのか、昼なのに夜勤みたいに暗い。反射した街並みに混じって、机の影や、背中を丸めて何かを見下ろす人の気配がある。公的な建物ならそれが普通だ、と頭では思うのに、視線だけがそこへ戻ってしまう。
連れが、向かいの展望フロアをズームで撮った。あとで見返すための、ただの記念写真のはずだった。
その場で画像を確認して、変な沈黙が生まれた。向かいの窓の中、観光客の群れは写っている。けれど、その下の暗い階の窓に、白い紙が一枚だけ浮いていた。室内のどこかに貼られているらしい。罫線のある表で、横に細い列が並び、右端に小さな四角が続いている。勤務表のフォーマットにしか見えなかった。
そして、一行だけ、異様に濃い。まるでそこだけ黒く塗ったみたいに。
拡大すると、黒塗りの下から文字が滲んで見えた。自分の名字だった。あの窓の向こうに、あり得ない形で、私の名前が置かれている。
「反射じゃない?」と連れは言った。けれど反射なら、文字は逆さになる。あれは正しい向きで、こっちを向いていた。紙の白さだけが、暗い階に小さな穴を開けていた。
帰りの通路で、靴底に薄い紙が貼りついているのに気づいた。剥がすと、受付の番号札みたいな短冊だった。入館券でもチラシでもない。朱色の線で区切られた欄があり、印字が一行だけ。
「暗層整合係 仮配属」
その下に、時刻が並んでいた。15:00〜23:00。今日の残り時間と一致する。汗が、背中の中央を下へ流れた。
家に着いても、短冊はただの紙にならなかった。机に置くと、いつの間にか四つ折りに増えていて、開くたびに罫線が増えた。最終的に、A4一枚分の「勤務表」になった。最上段に、この庁舎の部署名らしい略号。左端に、ずらりと並ぶ名前。そこに、私の名前が最初から印刷されていた。黒塗りの四角が、私の行だけ、今日の日付に打たれている。
スマホの歩数計は、あり得ない数字を示していた。建物にいたのはせいぜい一時間程度なのに、「八時間分」歩いたことになっている。移動履歴は、その展望フロアの一点に固定されたまま、時間だけが進んでいた。
翌日、もう一度、展望デッキへ行った。確認しないと、帰れない気がした。向かいの窓を見上げると、昨日と同じように人がいる。カメラを構える人、身を乗り出す人。そこに、妙に姿勢のいい一人が混ざっていた。手を後ろに組み、視線を街ではなく、こちらへ置いている。
自分だった。
顔立ちも、服の色も、立ち方の癖も、写真に写る自分そのものだった。ただ一つ違うのは、胸に細い紐が掛かっていること。職員証みたいなカードが、腹のあたりで揺れていた。
咄嗟に手を振った。向こうの自分は振り返さない。少し遅れて、首だけがこちらへ回る。目が合った瞬間、下の暗い階の窓が、一枚だけ明るくなった。机のスタンドライトみたいな点が灯り、白い紙が一枚、くっきり浮かぶ。勤務表の白。
私のポケットの中で、何かが硬く鳴った。取り出すと、昨日の入館券が、薄いプラスチックに挟まれていた。何もしていないのに、勝手にラミネートされたみたいに。そこには名前がない。代わりに、所属欄だけがある。
「暗層」
展望デッキの明るさが、急に遠くなった。エレベーターの到着音が鳴る。表示板は数字じゃなく、見慣れない一文字を点滅させている。「勤」。
私は、写真フォルダを開いた。昨日、向かいの展望フロアを撮ったあの一枚は、まだ残っている。けれど、写り方が変わっていた。上の窓の中にいたはずの“姿勢のいい一人”が消えている。その代わりに、下の暗い階の窓の内側、机の前に、私が座っている。スタンドライトの下で、勤務表に何かを書き込んでいる。顔は伏せられ、窓のガラスには、こちら側の景色が淡く映り込んでいた。
外にいる私の背後まで、都心が広がっているはずなのに、写真の中の街は、少しだけ空いて見えた。人の分だけ、密度が抜けたみたいに。
その日から、私のカレンダーには、毎日同じ予定が勝手に入る。「暗層整合係」。削除しても戻る。通知だけが、淡々と増える。
あの建物の下の暗い窓は、今日も最低限の照明で、普通に職務が続いているのだろう。あの窓の向こうで、誰かが、私の行に黒い四角を打つまでは。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

