都内の私鉄で、終点まで十五分ほどの短い区間を行き来する路線がある。夕方の下りはいつも半端に空いていて、吊り革だけが規則正しく白い輪を並べている。
その日、遺失物係の私は「車内に黒いバッグが残っている」と連絡を受けた。忘れ物は珍しくない。けれど、伝えられた置き場所が妙に具体的だった。
「一号車。荷物棚の角です。棚の“角”に、ぴたりと。」
忘れ物は、だいたい棚の中央に寄っている。振動で滑るからだ。角に「ぴたり」とは、わざわざ角に合わせて置いたみたいな言い方だった。
回送で戻ってきた車両に入ると、照明は白く、広告の紙は静かに波打っていた。路線図の色だけがやけに賑やかで、ドア脇の小さなモニターでは、明るいキャラクターが口を動かしているのに、音は切られている。静かなのに、何かが「しゃべったあと」の空気が残っていた。
一号車の荷物棚。その角に、黒いバッグが乗っていた。
角に合わせたみたいに、面が揃っている。取っ手もだらりと垂れず、畳んだ布のように落ち着いている。持ち主が降りた瞬間だけ、世界が“丁寧”になったみたいな置き方だった。
私は手袋をして、バッグに触れた。驚くほど軽い。
空だ。そう思った瞬間、吊り革がひとつだけ、遅れて揺れた。誰もいないのに。揺れは隣の輪へ伝わらず、その一つで止まった。まるで、透明な指がそこだけを掴んで離したみたいに。
念のため、車内の窓を見た。ドアのガラスには、反射が映る。白いマスクをした誰かが、スマホを見下ろす角度で立っていた。
こちらを見ていない。視線は画面に落ちたまま。現実に視線を上げると、その位置には誰もいない。空席と広告のパネルがあるだけだ。もう一度ガラスを見ると、反射の“誰か”はまだいる。帽子もコートもない、輪郭だけの人間。顔の半分を覆う白さだけが、現実の照明より明るく見えた。
私は視線を切った。見ないふりは、仕事の一部だ。
バッグを持ち上げ、裏側を確かめる。名札も何もない。チャックは閉まっている。軽いのに、閉まり方だけがやたらと堅かった。
遺失物として預かるには、内容物の確認が必要だ。事務室に戻り、台帳と照らし合わせながら、私はチャックに指を掛けた。
開かない。
いや、開く。開くのに、開いた感じがしない。
チャックを引いた瞬間、指先に「輪」の感触が伝わった。吊り革の白い輪に触れたときの、冷たく硬いプラスチック。そんなはずはないのに、バッグの口の内側が輪のかたちに手応えを返してきた。
ようやく口が開く。中は暗い。底が見えないほどの暗さだ。
懐中電灯を当てると、光は吸われるように細くなり、途中で途切れた。底がないのではない。底が「ここではない」だけだ。
そこで、バッグの中から音がした。
カタン。
吊り革が揺れるときの、あの軽い接触音。車内のどこかで輪がぶつかる音が、バッグの中から鳴った。
私は反射的にバッグを閉じた。閉じた瞬間、事務室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。目の奥に白い残像が焼き付き、その残像の中で、車内の風景が“もう一度”立ち上がった。
吊り革。
荷物棚。
ドア窓の反射。
そして、棚の角の黒いバッグ。
私は自分が、いつの間にか車内に立っているのを知った。
回送の車両の、あの静けさの中にいる。さっきまで事務室にいたはずなのに。床の振動が、今は走行中のそれに変わっている。ドアの窓に、マスクの反射が映っている。さっきと同じ角度で、同じようにスマホを見ている。
違うのは、反射のスマホ画面がこちらを向いたことだった。
画面には、車内の写真が映っている。吊り革と荷物棚、棚の角の黒いバッグ――そして、ドア窓に映る“私”の姿。
マスクをして、スマホを構えている私が、反射の中に立っていた。
息が詰まった。現実の私はマスクをしていない。けれど反射の私は、白い布で口元を覆っている。その白さが、広告の紙よりも、蛍光灯よりも、目立つ。
棚の角の黒いバッグが、わずかにずれた。
ずれたというより、「角から離れることを許された」みたいに、数ミリだけ世界がゆるんだ。
そして私は理解した。
あのバッグは、置き忘れではない。
“置いていくため”のものだ。
誰かが終点で降りるとき、自分の居場所を車内に残していく。
黒い布でできた、軽すぎる袋の中に。
そこに残ったものは、次の誰かの反射になって、ドアの窓に映る。
次にそのバッグを見つけた人が、台帳の前でチャックを開けたとき。
輪の感触が指に残ったとき。
カタン、という音が中から鳴ったとき。
その人の“いま”が、車内に折り畳まれてしまう。
吊り革がひとつ、遅れて揺れた。
今度は、私の真上で。
棚の角のバッグが、ぴたりと元の位置に戻った。
世界がまた、丁寧になった。
私は足元の床の振動を感じながら、ドア窓を見た。反射の中には、マスクをした誰かが立っている。スマホを持ち、画面を見下ろしている。こちらを見ないまま、終点まで降りない顔で。
ガラスの奥、現実の車内を見渡すと、誰もいない。
いるのは、棚の角の黒いバッグだけだった。
それから何日もして、同じ路線の同じ車両で、また「一号車の棚の角に黒いバッグ」という連絡が入った。
回送で戻ってきた車両に入った若い係員が言ったそうだ。
「変なんです。中、空っぽのはずなのに、吊り革の音がします」
「あと、ドア窓に……誰か、写ってました。マスクの人。こっちは無人なのに」
その係員が、私の机に置きっぱなしだったはずの手袋を、いつの間にかはめていたと聞いたのは、その後だ。
手袋の指先には、白い輪のような擦り跡がついていたという。
一度だけ、遅れて揺れた吊り革みたいに。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


