席は窓際

写真怪談

新しいマンションと古い家が肩を寄せ合う住宅街の角に、もう営業していない店があった。
赤い縁のショーウィンドウ。ガラスの内側は薄く曇り、ところどころ紙を剥がした跡だけが白く残っている。中華料理屋か、町の食堂だったのだろう。油の匂いが染みついた空気だけが、看板の文字よりも正直だった。

ウィンドウの底の棚に、置物が六体、横一列に並んでいる。
左端には黒ずんだブロンズの女性像。胴から腰へ流れる線だけが残っていて、表情のない“体”がこちらを向いている。
その隣に木彫りのペンギン、目の大きいフクロウ、首の長い猫、ふくよかな猫、そして口を開けたカエル。
動物の列の中に、人の体だけが紛れ込んでいる。その取り合わせが、妙に落ち着かなかった。

最初に気づいた違和感は、視線だった。
首の長い猫は、いつもほんの少し上を見ている。ガラスの汚れに映る、こちらの顔より少し高い場所。
夕方に通ったときは、フクロウの大きな目が、ガラスの剥がれ跡の白い斑に重なって見えた。まるで、そこから誰かが覗いているようだった。

ある晩、雨上がりの道を通ったとき、ショーウィンドウが内側から白く曇っていた。
閉まった店なのに、ガラスが“内側”から息を吐いている。曇りの中心に、指でなぞったような細い線が見えた。
漢字のようでもあり、メニューの走り書きのようでもあり、読めそうで読めない。油で濡れた指先でなぞったみたいな、鈍い光り方だった。

翌日、線は消えていた。
ただ、棚の赤い縁に小さな米粒が二つ、貼りついていた。風で飛んできたにしては、妙に白い。湿って、艶がある。
私は無意識に数えてしまった。二つ。
ふくよかな猫の前の床にも、同じ形の白い点があった。

それから私は、通るたびに置物の列を確認するようになった。
並びは同じ。けれど、位置がほんの数ミリずつ違う日がある。
首の長い猫だけが、なぜか“手前”に出ている日があるのだ。ガラスとの距離が、ほんの少し近い。棚に積もった埃の上に、細い線が一本だけ付いている。
引きずったような跡。爪先で、擦ったような跡。

気味が悪くて、ある日スマホで写真を撮った。
撮ってしまえば“記録”になる。そうしたら気持ちが整理できると思った。

画面に写ったショーウィンドウは、肉眼で見ていたものと少しだけ違った。
ガラスの反射に、店の中のはずの暗がりが、やけに深く写っていた。椅子と机の輪郭が見える。あんなの、外からは見えないはずなのに。
さらに奥に、丸い影がいくつも並んでいる。人の頭の高さ。客が座っているように見えた。

指先が冷たくなった。
私はその場で画面を拡大した。丸い影のひとつが、こちらを向いている。
首の長い猫の顔と同じ高さに、人の目があった。黄ばんだ光。瞬きの途中みたいに細い。

慌てて顔を上げてガラスを見た。もちろん、中は暗い。置物が並んでいるだけだ。
それでも、ペンギンの背中が濡れて見えた。木彫りなのに、水滴が伝っているようだった。

帰宅してもしばらく、油の匂いが鼻から抜けなかった。
手を洗っても落ちない。指の腹に、ぬるりとした膜が残っている気がした。
その夜、眠りかけたころ、どこかで小さな鈴が鳴った。レジに置かれる、あの澄んだ音。ひとつ。ふたつ。一定の間隔で、ゆっくり。

翌朝、ポケットから木屑が出てきた。
細く、薄い。爪で削ったときの削り屑みたいな形。触ると、ぬくもりが残っていた。
木の匂いじゃない。ごま油の匂いがした。

我慢できずに、昼過ぎにまたその店へ行った。
ショーウィンドウのガラスは、内側からまた曇っていた。前より広く、白い息が塗りつけられたように。
そして、曇りの上に、手形がいくつも浮いていた。小さい手形。指が短い。五本あるのに、爪だけが長く伸びている。
手形の下、棚の埃には線がいくつも引かれていた。並び替えた跡だ。

置物の列は、同じに見えた。
けれど首の長い猫だけが、確かにひとつ“手前”にいた。
ガラスに鼻先が触れそうな距離。猫の目が、上ではなく、私の胸のあたりを見ていた。

その瞬間、背後で金属が擦れる音がした。
振り向くと、通りの向かいの新しいマンションの窓ガラスが、太陽を反射して白く光っているだけだった。人影もない。
なのにショーウィンドウの内側から、今度ははっきりと、皿が重なる音がした。忙しい昼時の厨房の音。湯気の音。誰かが歩く靴底の音。

私は思わず、ガラスに手を当てた。
冷たい。外の冷たさじゃない。冷蔵庫の扉に触れたときの、芯から奪う冷たさ。
その冷たさの向こうで、何かがこちらの手に重なった気がした。ぴたりと、掌の形が合う。指先が、私の指の間に滑り込む。

怖くて手を離そうとしたのに、離れない。
ガラスに吸い付いたみたいに、掌が剥がれない。
曇りの中に、もう一つの輪郭が浮かんだ。私の手形の外側に、もう一回り大きい手形。人の手だ。指が長い。
その手形の位置は、左端のブロンズの女性像の前だった。

ガラスが一瞬、透明になった。
店内が見えた。机と椅子、赤い提灯、壁の短冊。誰かの背中が並んでいる。湯気の向こうで、首の長い猫が、椅子の上に座っていた。
そして、ブロンズの女性像が“体”のままではなかった。
胸の上に、顔があった。目だけが、やけに鮮やかに濡れていて、こちらを見ていた。

次の瞬間、視界が白く曇り、私は反射的に手を引いた。
掌の中央がひりひりした。見ると、薄い油膜のようなものが付いている。指の間に、米粒がひとつ挟まっていた。

家に戻って、撮った写真を確認した。
ショーウィンドウの反射に写っていた丸い影は、客の頭ではなかった。
私の頭だった。店の中から撮られた角度で、私が棚の前に立っている。
そして、私の背後に、六体の置物が並んでいる。並びが逆だ。カエルが左端で、ブロンズの女性像が右端にいる。
首の長い猫だけが、私の背中のすぐ後ろまで“手前”に出ている。

写真の端に、短冊が写っていた。
読めたのは一行だけだ。かすれた墨で、こう書かれている。

本日おすすめ 席は窓際

その夜から、通りを歩くとき、私は必ず窓際を避けるようになった。
けれど、あの店の前だけは、どうしても視線が引き戻される。ガラスの汚れの白い斑が、誰かの爪跡に見えるのだ。

数日後、ショーウィンドウはベニヤ板で打ち付けられていた。
取り壊しの前触れだろう。古い店が消えていくのは、この街ではよくあることだ。

ただ、板には六つの丸い痕が残っていた。
埃と油が押しつけられたような、手で拭っても消えない黒い丸。
そして一番左の丸だけが、少しだけ“手前”にずれていた。
まるでそこに、首の長い猫が近づいてきたまま、閉じ込められたみたいに。

私はその痕の前で立ち止まり、掌の中央のひりひりを確かめた。
まだ、消えていない。
油の匂いも、まだ、薄く残っている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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