二月の週末、強烈な寒気が入り、各地で大雪と強風が見込まれていたそうです。日本海側は吹雪、太平洋側でも雪の可能性がある、と公的な防災情報が繰り返し流れていました。
海沿いの小さな町では、海に面した国道が早々に通行止めになり、吹きだまりで車が動けなくなるのを想定して、避難所を一つだけ先に開けたといいます。建物は海から少し上がった場所にある古い集会施設で、毛布と簡易ベッド、湯を沸かすポット、携帯用の暖房具が並べられました。
その夜、風は台風並みだと噂されていました。最大瞬間風速が三十五メートル、波の高さが六メートル、降雪は一晩で七十センチに届く恐れ――数字は頭に残るのに、外は数字では済まない音を立てていたそうです。
窓を叩く雪は砂のようで、玄関の隙間から白い粉が入り、床に薄く積もりました。
避難所に運び込まれたのは、動けなくなった車から移ってきた数人と、徒歩で来た年配者でした。誰も大声を出せず、息を潜めて毛布にくるまり、言葉は短くなるばかりだったといいます。
その中に、最後に来たひとりがいました。年の頃はわからない。髪が濡れていて、顔の輪郭がぼやけるほど水気を帯びていたそうです。吹雪の中を歩いてきたにしては、濡れ方が妙に“海の濡れ方”だった、と。
その人は受付にも向かわず、非常口の近くに座りました。非常口は海側の壁にあり、外はすぐ斜面、その先が防潮扉のある道につながっています。
座った瞬間、室内の空気が変わったそうです。潮の匂いが、すうっと入ってくる。だが窓は閉まっている。誰かが換気扇を回したわけでもない。
そして、それが一度きりではありませんでした。
六分おきに、匂いが来る。
六分おきに、湿り気が増える。
六分おきに、室内の温度だけが言い訳みたいに下がる。
息が白く濃くなり、毛布の上に霜がふっと浮いて、次の瞬間に何事もなかったように戻る。
誰かが時計を見て気づいたのではなく、身体が先に覚えてしまったそうです。「また来る」と。次の六分が近づくと、歯が小さく鳴る。
三度目の六分のときでした。
非常口のドアの下から、細い水が入りました。雪解けの水ではなく、海水のように塩が混じった、黒い水です。床を薄く走り、暖房の風で蒸発する前に、筋の形だけが残りました。
それは足跡ではなく、波の引き際のような曲線だったそうです。
誰かが雑巾を取りに立ち上がった、その瞬間。
非常口の前に座っていた“濡れた人”が、立ったといいます。
立ち上がる動作はゆっくりで、しかし揺れがなかった。
濡れた髪から雫が落ちるはずなのに、落ちない。代わりに、髪の先が床の粉雪を触れたところだけ、そこが霜になりました。
その人は何かを探すように、扉に額を寄せました。扉の向こうは吹雪で、外に出れば危険だと誰もがわかっているのに、止める声が出なかったそうです。
六分目の“潮”が、また来ました。
湿った冷気が室内を撫で、照明が一瞬だけ濁る。
扉の金具が、外から叩かれたように鳴りました。
コン、コン、コン。
一定の間隔で、三回。
まるで、波が防潮扉を試すときの癖のように。
その音に合わせて、“濡れた人”が扉の内側からも叩き返したそうです。
コン、コン、コン。
叩いた覚えのない、乾いた音でした。
直後に、扉の向こうから声がしたといいます。
男とも女とも言えない、息の混じった声で、短く。
「まだ、閉めないで」
何を、とは言わなかったそうです。
けれど、その場にいた全員が同じものを思い浮かべた――海沿いの防潮扉。高潮や高波のときに閉める、重い扉。閉める順番。鍵の確認。閉めたあとに残る“取り残し”の感じ。
そのとき、室内の床に残っていた黒い筋が、少しだけ増えていました。勝手に増えたのではなく、増えたように“見える”のです。
波の線が重なるように、薄く、薄く。
目を離すと消えるのに、見つめると確かにそこにある。
誰かが震える声で「外には出さない」と言った瞬間、“濡れた人”の輪郭がほどけたそうです。
霧が風に散るように、髪の濡れが空気に溶け、顔が壁の影に混ざり、最後に残ったのは、非常口の扉に貼りついた白い霜の手形だけでした。内側から押した指の形で、五本がはっきりと。
吹雪が弱まったのは、ずっと後でした。
翌朝、外の雪は腰の高さまで積もり、道はどこも真っ白で、国道の通行止めは続いたそうです。
避難所の非常口は凍りついて開かず、係の人が湯をかけてようやく動かしました。
扉の外の地面には、足跡はありませんでした。
その代わり、防潮扉へ下る斜面に、波の線と同じ曲線の“霜の筋”が、等間隔で六本だけ続いていたそうです。
六分おきに来た潮の回数と、同じ本数だったといいます。
その町では今も、吹雪の夜に海の匂いが六分おきに入ってくる場所があるそうです。
避難所ではなく、海沿いの防潮扉の手前、誰も立ち止まらないはずの踊り場だそうです。
そこで耳を澄ますと、波でも風でもない三回の叩く音がして、扉の内側から“叩き返す音”が返ってくることがあるのだとか。
あの夜、誰が何を閉めたがっていたのかは、結局わからないままのようです。
この怪談は、以下のニュース記事をきっかけに生成されたフィクションです。
〖最強寒気と雪の予想〗7~8日までに近畿・中国・北陸70cm 東北50cm 関東甲信・東海・北海道40cmなど降雪予想も 8日は太平洋側でも大雪の所あるか… 大雪のシミュレーションで見る最新予想は? | TBS NEWS DIG (2ページ)
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