休店日の居酒屋は、街の喧騒から切り離された標本みたいに見える。
明かりの落ちた店内、竹のすだれの向こうに、緑の日本酒瓶が列を作っている。網入りガラスの菱形が、瓶の肩に影を刻んで、まるで檻の中に酒を並べているみたいだった。
その晩、私は用事の帰りに店の前を通った。
向かいの街灯がガラスに白く滲み、通行人の影が一瞬ずつ上滑りしていく。映り込みだ。誰かが歩けば、光が動く。そういうはずだ。
なのに、ひとつだけ動き方の違う影があった。
通行人が通り過ぎても、影がガラスから離れない。遅れて、引きずるように残る。光の輪郭がずれるのではなく、“人の輪郭”だけが遅い。
私は反射を確かめるように立ち止まり、身体を少し横にずらした。
映り込みも、当然ずれる。けれど、その遅い影だけは、網の目の同じ場所に貼りついたままだった。まるでガラスの内側から、こちらの動きを待っているみたいに。
一度、目を逸らして、もう一度見る。
網入りガラスの中央付近、街灯の滲みのすぐ下。瓶の列の隙間に、顔があった。
顔というより、顔になり損ねた“白さ”だった。
すだれの影が頬に斜め線を引き、瓶の緑が顎を青黒く染めている。目の位置だけが妙に暗く、そこに網の菱形が重なって、まるで瞳孔みたいに見えた。
次の瞬間、通行人の映り込みがガラスを横切った。
その影が通り過ぎたあと、白い顔は“残った”。
映り込みなら消えるはずのものが、そこだけ残っている。私の頭が勝手に作った錯覚だと、言い訳が追いつかないまま。
私は怖さより先に、変な確信に近いものを抱いた。
「あれは、見えてしまった側のものだ」
逃げるように歩き出したのに、背中がぬるくて振り返ってしまう。
植木の枝が風で揺れ、影がガラスに網みたいに絡みつく。枝の影の隙間から、白い顔が少しだけ前に出た。ガラスに触れているわけじゃないのに、距離が縮まったように見えた。
そのとき、瓶がひとつ、かすかに鳴った。
「チン」と、乾いた音。誰もいない店内から。
日本酒瓶の列のどれかが、触れられて揺れたような音だった。
私は反射を壊すために、スマホを構えて画面越しに見た。
画面の中では、街灯の滲みが弱くなって、網の目がはっきり出た。通行人の影も、私の影も、ちゃんと映っている。
その“中に”、白い顔がいた。
画面越しだと、顔が少し下を向いているのがわかった。
視線は私ではなく、瓶の列のいちばん端――ラベルの墨文字が大きい一本に落ちていた。
そして、口のあたりが、笑う形でもなく、叫ぶ形でもなく、ただ“開いて”いた。
私は息を吸うのを忘れ、指が勝手にシャッターを押した。
撮った直後、画面が一瞬だけ暗くなった。街灯が消えたみたいに。
すぐに明るさは戻ったけれど、ガラスの中の白い顔だけが、ほんの僅かに近づいていた。
翌日、店は休み明けで開いていた。
常連らしい客が入口の植木を避けながら入っていくのが見えた。私は昨夜のことを言うべきか迷い、結局、窓の前に立って瓶の列だけを見た。
一本だけ、置き方が変わっていた。
昨日、白い顔が見ていた端の瓶が、わずかに手前に出ている。ラベルの下のガラスに、水滴が筋になって残っていた。指で触れたような細い跡。
店内の空気が冷えたわけでもないのに、そこだけ濡れていた。
私は店に入らず、そのまま通り過ぎた。
背後で、植木の葉が擦れる音がした。
振り向かなかったのに、網入りガラスの菱形が、瞼の裏に残って離れなかった。
それから、休店日の夜だけ、あの窓の前を避けるようになった。
なのに、週に一度、決まった時間になると、私は必ず思い出してしまう。
あの白い顔が、誰の顔でもないのに、私の“見方”だけを正確に真似していたことを。
最近、別の道を通っても、同じような遅い影を見かける。
ガラス張りの自販機、駅の案内板、マンションのエントランス。
映り込みの中で、通行人の影が流れていくのに、ひとつだけ残る影がある。
私が立ち止まると、その影も立ち止まる。
私がスマホを構えると、その影も、口を開ける。
そして、思い出す。
休店日の居酒屋の窓に並んでいた緑の瓶は、まるで席の数みたいだった。
あの列のどこかに、私の席も、最初から用意されていたのかもしれない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


