冬の終わりに近い頃、原因不明の火事で焼け落ちた部屋から回収された金属片が、鑑識の保管室へ運び込まれたそうです。黒く煤けた表面は、触れれば粉が落ちるほど脆く、指紋どころか形状の確認さえ難しい状態でした。ところが、その案件には「高熱を受けた試料でも隆線が読める可能性がある」として、特殊な顕微鏡測定へ回す手続きが付されていました。書式どおりの一行で済むはずの注記が、そこだけ妙に長かったといいます。
測定は、真空の箱の中で行われました。空気のないはずの場所で、なぜか塩辛い匂いがした、と記録に残っています。担当者は気のせいとして、焼けた金属片を固定し、照射条件を整えました。通常の粉末法や蒸気を使う方法では、すでに何も出ない試料です。残っているとすれば、有機物ではなく、熱に強い“無機の名残”だけだろう……そう説明されたそうです。
画面に最初に現れたのは、粒の列でした。直径が髪の毛よりずっと小さい粒が、途切れ途切れに並び、線のように連なっていきます。観察範囲はせいぜい数ミリにも満たないため、範囲を少しずつずらして撮り、像を重ね合わせて全体をつなぐ必要がありました。つないだ先に浮かび上がったのは、確かに指紋の隆線でした。焼けて消えたはずの、あの曲線です。
不思議なのは、その隆線の“質”でした。線の中に、汗孔の点がやけに整って並んでいたといいます。点が点のまま残るのではなく、点だけが残って、線があとから追いついてくるような見え方だったそうです。さらに、隆線の端が、金属片の割れ目で終わらず、割れ目の向こうへ続いているように見えました。もちろん向こう側は空で、試料はそこで途切れているのに、線だけが“先”を示すのです。
照合に回すため、画像は印刷されました。ところが、紙に出た瞬間から、像が抜けはじめました。最初は中央の数本だけが薄くなり、次の出力では、隆線の曲がり角がごっそり白く欠け、次の出力では、点だけが残って線が消えました。インク切れではありません。他のページは黒々と出るのに、指紋の部分だけが、紙の繊維の奥へ沈むように白くなるのです。
担当者は、別のプリンタに替えました。別の紙に替えました。原画像をその場で拡大して見せても、画面の中では隆線が見えている。けれど、出力した瞬間に、隆線が“印刷されなかったこと”になる。作成した鑑定書も同じでした。本文は残るのに、肝心の指紋の添付欄だけが、最初から空欄だったように見える。貼り付けたはずの画像が、そこに無いのです。剥がれた痕も、糊の跡もありません。
奇妙なことに、空欄が増えるほど、測定画面の隆線は鮮明になっていきました。粒の列は、より細かい粒の集合として見え、まるで塩の結晶が“線”を編んでいるようでした。誰かが冗談めかして、こんなふうに言ったそうです。
「この指紋、紙の上じゃなくて、こっちに残りたいんだ」
その直後、照合用の対照指紋の台帳で異変が起きました。台帳は紙のはずなのに、写真欄が一枚だけ、まっさらになっていたといいます。誰の対照指紋が消えたのかは、判別できませんでした。見出しも番号も残っているのに、肝心の指紋の写真だけが無い。そこに貼られていたはずの四角い影すら残らない。過去の照合結果を示す欄も、該当行だけが白く抜けていました。塗り潰しではなく、“書かれなかった”ような白さです。
同じ夜、真空箱の内側に、指の跡が付いたそうです。誰も触れていないガラス面に、曇りのような線が現れ、粒が連なって、隆線の形をつくる。拭いても落ちず、乾くと薄れ、また同じ形で戻る。その形は、測定していた指紋と同じでした。焼け跡から拾われた隆線が、箱の内側へ移ってきたように。
翌朝、案件のフォルダを開くと、必要書類の半分が白紙になっていたといいます。受付票は残っているのに、添付資料が無い。差し替えた形跡も無い。紙は新品のように白く、角の折れも無い。そこにはただ、強い熱で焦げた金属片の写真だけが、裏写りもなく貼られていました。金属片の表面には、あの隆線が、肉眼では見えないまま残っているはずなのに。
その案件は、結局「照合不能」として扱われたそうです。けれど、照合不能の理由欄だけが、最後まで空欄でした。なぜ読めなかったのか。なぜ印刷できなかったのか。説明を書く余地はあったのに、そこだけが、最初から“書かれてはいけない”場所だったように残ったといいます。
そして、それ以降、同じ保管室で紙の台帳を開くたび、指先がわずかに塩辛くなることがあるそうです。指を洗っても、何かを触ってもいないのに、隆線の溝にだけ、白い粉が残る……そんな後日談も、いくつかの記録に散っているようです。
この怪談は、以下のニュース記事をきっかけに生成されたフィクションです。
高熱を受けた変性指紋試料からの指紋検出に成功 | 理化学研究所
高熱を受けた変性指紋試料からの指紋検出に成功理研らの共同研究グループは、高熱を受けた変性指紋試料から指紋隆線(線状の隆起)を明確に確認できる放射光軟X線光電子顕微鏡法(PEEM)を用いた画期的な指紋の検出法を開発しました。

