結び目のないブリキ缶

写真怪談

裏道に面したその農家は、いつも静かだった。納屋の口はシャッターが半分ほど降り、壁のざらついた白が日差しを反射している。庭先には青や黄のコンテナが積まれ、奥には黒い籠や橙の箱が雑に重なって、紙切れが何枚か挟まったまま、風に揺れていた。

その日、猫がいた。白と灰の縞の、太りすぎでも痩せすぎでもない、いつも畑の端で見かけるやつ。普段なら人の気配に気づくとすぐ姿を消すのに、なぜか今回は、コンクリートの縁と砂利の境目に前脚を揃えたまま、まぶたを薄く閉じて動かなかった。

猫の背後、黄コンテナの上に錆びたブリキ缶が置かれていた。茶色くくすんだ四角い缶で、蓋を押さえるように白い紐が斜めに掛けられている。お菓子が入っていたのか、工具が入っていたのか、そんなことはどうでもよくなるくらい、紐の張りだけが不自然に見えた。結び目がどこにもない。最初から、ほどけない形で“縛られている”ようだった。

近づくと、猫は目を開けた。こちらを見た、と思ったのに視線が合わない。瞳が焦点を結ぶ先が、私ではなく、黄コンテナの上のブリキ缶だった。まるで、缶の中にいる何かを見張っている。

庭の奥で、紙が擦れる音がした。黒い籠の隙間に挟まった紙が風で鳴っただけ……そう思ったのに、音は一度で終わらず、乾いた擦過が規則正しく続いた。紙と紙が、内側から重ね直されているみたいに。

猫の尻尾が、砂利に触れないように持ち上がった瞬間、ブリキ缶の紐が、きゅ、と鳴った。引かれた。外からではなく、内側から。紐が動いたのではない。紐の“張り”がひとつ増えたみたいに、空気が詰まって、締まった。

私は反射的に息を止めた。ブリキ缶の蓋の隙間から、薄い影がのぞいた気がした。影は指の形でも、虫でも、煙でもない。輪郭だけが「ここから出たい」と主張している。次の瞬間、缶の中から、甘いような、土のような匂いが漏れた。湿った土間の底と、古い飴玉を同時に嗅いだような匂い。

猫が一歩も動かないのが、いちばん怖かった。怖がって固まっているのではない。そこにいるのが“役目”だから動けない、という静けさだった。コンクリートと砂利の境界にぴたりと前脚を置き、納屋の入口と庭先の境目に、目だけを据えている。

ブリキ缶の蓋が、ほんの少し浮いた。紐が掛かっているのに、浮いた。缶が呼吸するみたいに、すう、と空気が吸い込まれた気配がして、私の胸の内側まで同じ動きに引っ張られた。言いようのない焦燥が込み上げて、喉の奥が勝手に開きそうになる。叫びではない。“名乗り”のために。

そのとき、缶の隙間から、紙片が一枚、ゆっくり押し出されてきた。奥の籠に挟まっている紙と同じような薄さで、色だけが少し白い。そこには何か書かれているはずなのに、目が滑る。文字として認識できない。見れば見るほど、ただの空白にしか見えなくなる。

空白なのに、私の頭の中から、いくつかの言葉が抜け落ちた。目の前の農家の苗字。近所の人の呼び名。子どものころに呼ばれていた自分のあだ名。思い出そうとすると、缶の中から同じ紙擦れが返ってくるだけで、どれも“戻ってこない”。

猫が、初めてこちらを見た。瞳の奥で、私の顔ではなく、文字になり損ねた空白が揺れている。あの目は、「今さら気づいたのか」と責めるのではなく、「ここで止まれ」と告げていた。

私は一歩下がった。次の一歩で、境界を踏み越えてしまう気がした。境界を踏み越えたら、抜け落ちるのは言葉だけでは済まない。そう確信したとき、足元の砂利の中に丸い石が見えた。石のように丸くて、石より少し温度が低い。拾い上げる勇気はなかった。なぜかそれを持った瞬間、何かを“返す”ことになる気がした。

背中を向けるのが怖かった。けれど、向き合っているほうがもっと怖い。私は視線を逸らし、歩幅を崩さないようにして裏道へ戻った。背後で、紐がもう一度、きゅ、と鳴った。今度は、締め直す音だった。

その晩、家の玄関で自分の名前を書こうとして、手が止まった。漢字は思い出せるのに、読みが出てこない。読みだけが空白になっている。翌日、回覧板を持ってきた近所の人が、私を呼ぶとき、妙に間を置いた。「ええと……」と、言葉を探す顔をしていた。

それからしばらく、あの農家の納屋口を通るたびに、猫を探してしまう。黄コンテナの上のブリキ缶も。見つからないほうがいいのに、確認せずにはいられない。

もしまた、あの猫が境界に座っていて、ブリキ缶の紐が結び目のないまま張りつめていたら。
私の中から抜け落ちた“読み”は、まだ、あの缶の中で紙になりきれず、擦れる音だけで息をしているのかもしれない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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