紙垂の影

写真怪談

神社の参道の入口というのは、たいてい少しだけ「こちらへ」と肩を押してくる。
でも、この日のそれは押すのではなく、するりと指先を引く感じだった。

用事の帰りで、頭の中が散らかったまま歩いていた。
いつもの道だと遠回りになる。ふと、一本外れた路地に曲がった。
理由はない。体が勝手に角を選んだ、という言い方がいちばん近い。

路地を抜けた瞬間、コンクリートのブロック塀が視界いっぱいに立ち上がった。
陽が強く、塀の上には鉄柵と濃い緑。さらにその向こうに、石の鳥居の横木が見えた。
白い紙垂しでは、風がないのにわずかにほどけている。
塀の面を斜めに横切る一本の影が、長い指で道を示すみたいに伸びていた。

鳩が数羽、ばたばたと飛び立った。
羽音が一瞬だけ、路地の空気を入れ替える。
その中で一羽だけ、黒い屋根のようなものの上に残っていた。
こちらを見ているでもなく、鳥居のほうを見ているでもない。
ただ、そこに「置かれている」みたいに静かだった。

石柱が目に入った。
社名が彫られている。途中まで読めるのに、最後がどうしても続かない。
目で追うと、文字の端が陽に溶け、欠けたところだけが白く滲む。
声に出せば読めそうなのに、口の中で音が丸まって逃げる。
名前を伏せているのはこちらではなく、向こうのほうだった。

塀際に立ったまま、呼吸が整っていくのが分かった。
心臓の速さが、鳩の首の小さな動きと揃う。
カク、カク、と首が振れるたびに、胸のざわめきが一枚ずつ剥がれて落ちていった。

紙垂が一度だけ、はっきりと揺れた。
揺れ方が、風のそれではない。
「揺れる」のではなく、「うなずく」みたいだった。

次の瞬間、塀の斜め影が少し濃くなった。
影の端が、こちらの足元へ寄ってくる。
触れられたわけではないのに、足の裏が軽く引かれた。
怖さはない。手すりを見つけたときの安心に似ていた。

鳥居の下へ行く道は、塀の向こうに続いているはずだった。
なのに、ここに立っているだけで、境目を越えた感じがした。
路地の音が遠くなる。車の気配も、遠い波みたいに丸くなる。
代わりに、木の幹の肌理が目に入る。紙垂の白さが、まぶしいほど柔らかい。

鳩が、ぴたりと動きを止めた。
その静けさの中で、胸の奥に引っかかっていた「今日の嫌なこと」が形を失った。
忘れたのではない。置いていける大きさに、畳まれただけだ。

参拝を済ませて戻ると、塀の上の一羽はまだそこにいた。
鳩は何もしていない顔をして、しかし確かに「ここまででいい」と言っている。
石柱の文字は、やっぱり最後まで読めなかった。
その代わり、読めなくても困らないほど、心は落ち着いていた。

帰宅して写真を見返した。
鳥居の紙垂の下、塀を横切る斜めの影が、一本の線になって写っている。
不思議なのは、その線がただの影ではなく、どこか「結び目」を作っているように見えたことだ。
ほどけたはずの気持ちが、あの境界で一度だけ結ばれ直していた。
誰にも見せなくていい結び目を、見えないまま、ちゃんと。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

タイトルとURLをコピーしました