開場前のゴルフ練習場は、音が少なすぎて、逆に耳が忙しくなる。
湾曲した屋根の裏側は、鉄骨の格子がずっと続いていて、柱ごとに扇風機が等間隔で吊られている。緑の打席が列になって、番号の札とボール籠が整列し、奥には飲料の自販機が青く光っている。人の気配がないのに、設備だけは「いつでも動ける顔」をしている。
早番の点検に入った彼は、いつも通りブレーカーと照明を見て回り、最後に扇風機のスイッチを確かめた。
全部、切れている。
それなのに、歩き出した途端、背中のうぶ毛だけが撫でられた。
風ではない。
「風が当たった」というより、「風を当てられた気がした」。
扇風機の羽は止まっている。ビニールのカバーも、紐も揺れていない。けれど、柱を一本過ぎるたび、首の後ろに同じ触感が来る。まるで誰かが、扇風機の数だけ目を持っていて、順番に焦点を合わせているみたいに。
彼は立ち止まって、屋根の下を見上げた。
扇風機が、こちらを向いていた。
向いていた、と思った。次の瞬間には、全部まっすぐ下を向いている。目の錯覚だと自分に言い聞かせて、もう一度見上げると、今度は二つだけが「遅れて」こちらを追ってくる。羽根は回っていないのに、向きだけが動く。節のある首が、ほんの少しずつ、ねじれる。
彼は気分を変えようと、自販機で飲み物を買った。
硬貨を入れ、ボタンを押す。落ちる音。取り出し口の冷たい缶。
その缶は、冷えていなかった。常温より少しだけ温かい。朝の空気に逆らう温度で、妙に手に馴染む。
プルタブを開けると、炭酸のはずの飲み物が、音を立てずに沈んだ。
無音の泡が、喉の奥にだけ刺さる。
打席に戻る途中、彼は気づいた。
番号が、増えている。
自分の担当は「7番打席」だったはずだ。札も、籠も、いつもそこにある。けれど今、目の前の札は「8」になっている。隣は「9」。その先も、ひとつずつズレていく。数え直そうとして、彼は途中で手を止めた。
緑の打席は、列の途中で、同じ番号を二度持っていた。
重複しているのに、隙間はない。
打席の幅も柱の位置も変わっていない。変わっているのは、「数」だけだ。
不意に、乾いた音が鳴った。
カツン、と。
誰かがドライバーで打った時の、芯に当たった短い音。
反射で身体がすくむ。けれど打席は無人で、ネットも揺れていない。ボールの軌跡もない。音だけが、屋根裏を走って、どこかで吸い込まれた。
次に聞こえたのは、ボールが転がる音だった。
コロコロと、金属の縁を叩きながら、籠の中に落ちる音。
彼が覗くと、籠がひとつだけ満ちていた。さっきまで空だったはずなのに、白いボールがきれいに揃っている。
拾い上げると、ボールは湿っていた。
朝露ではない。手のひらに残るのは、水気ではなく、薄い粘り気だった。耳に近づけると、ボールの内部で、遠い歓声のようなものが反響した。拍手でも、風でもない。誰かの生活音が、薄紙一枚越しに鳴っている。
彼は、思い出した。
この練習場には、昔から変な噂がある。
「開場前の一時間は、打席が先に練習をする」
そう言うだけで、誰も続きを語らない。理由を尋ねても、笑って話を替える。まるで“続きを言う”という行為だけが、この場所で許されていないみたいだった。
だが今、扇風機が一斉に、ゆっくりと同じ角度に首を振った。
打席にいる「誰か」を見失わないように、列全体で視線を寄せるみたいに。
その瞬間、屋根の下の空気が一枚、剥がれた。
透明な膜がずれたように、打席の奥行きが深くなる。緑のユニットが遠のき、柱の間が伸び、白い壁の窓が、やけに小さく見える。現実が、ほんの少しだけ拡大して、そこに別の時間が入り込む余白ができた。
彼の腕時計が、止まった。
秒針が「12」の位置で固まり、音だけが続いた。チチチ、と。進まないのに鳴っている。
自販機の表示は点いたままなのに、光が揺らぎ、数字が読めない。
扇風機の羽根が、回り始めた。
電源は入れていない。ブレーカーも落ちている。
なのに、回る。風が起きる。音はしない。静かな回転だけが、均等な速度で並ぶ。羽根が回るたび、打席の床に、影の円が描かれては消える。その影は、彼の足元にだけ、少し遅れて重なった。
彼は理解した。
扇風機は風を送っていない。
「目数」を数えているのだ。
回転の回数。
列の数。
打席の番号。
そして、籠に増えていくボールの数。
増えているのはボールではない。
この場所に置き去りにされた、時間の断片だ。
彼は、さっき買った温かい缶を見た。手のひらに吸いつくような温度。開けたはずなのに、まだ密封されている気がする。飲んだ記憶が薄い。喉の痛みだけが残っている。
そして、思い当たった。今朝、家を出るときに何かをしたはずだ。鍵を掛けたのか。ガスを止めたのか。メモを取ったのか。思い出せない。抜け落ちた箇所が、形を持っている。
その「抜け」が、ここに落ちてきているのではないか。
打席の端の防球ネットが、ぴんと張った。
誰も触れていないのに、網目が一瞬だけ、別の図形に見えた。格子の交点が増え、等間隔のはずの編み目が、どこかで細かくなっている。そこだけ、密度が違う。まるで、網が何かを捕まえて、逃がさないように目を細くしたみたいに。
彼は衝動的に、籠のボールを一つ、ネットに向けて投げた。
軽く放っただけなのに、ボールは途中で速度を失い、空中で止まった。止まったまま、ゆっくりと回転し、白い表面に、薄い数字が浮いた。
「7」
次の瞬間、その数字は「8」になり、「9」になり、最後には読めない記号になって、ボールは音もなく消えた。
落ちる音がしない。跳ね返る音もない。消えた場所だけが、少し暗い。屋根の下の影が、そこだけ濃い。
扇風機が一斉に止まった。
同時に、空気の膜が元に戻った。奥行きが縮み、打席はいつもの距離に戻る。自販機の表示が鮮明になり、時計の秒針が動き出す。チチチ、が正常な音に変わる。
緑の打席の番号を見直すと、「7番」は、ちゃんと「7番」だった。
籠も空だった。増えていたはずのボールは、最初から無かったように、きれいに消えている。
ただ一つ、彼の手の中の缶だけが、まだ温かかった。
缶の底に、小さな印字がある。賞味期限でも製造番号でもない、時刻のような数字。
「05:59」
開場は六時だ。
この練習場が「開く」前の、最後の一分。
その日、最初の客が来たとき、彼はいつも通り「おはようございます」と言えた。
扇風機も普通に回り、ボールも普通に出る。誰も違和感を口にしない。
ただ、彼だけが、一日中、家の鍵のことを思い出せなかった。
閉めたかどうか、ではない。
「鍵を持っている」という感覚自体が、どこか薄い。
夜、帰宅してドアノブに手を掛けたとき、鍵穴に、白いものが詰まっているのに気づいた。
ゴルフボールの破片みたいな、白い欠片。
触れると、指先に薄い粘り気が残った。
彼はそれを取り出さず、そのままポケットに入れた。
明日、早番の点検で捨てればいい。そう思った。
けれど翌朝、開場前の練習場で、緑の打席が並ぶ列の端から端まで、扇風機がひとつ残らず、彼の方を向いていた。
回っていない羽根が、回っているみたいに見えた。
そして彼は、自分が何番打席の担当だったか、思い出せなくなっていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。
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