郊外の住宅街は、畑の匂いがまだ残っている。新しい家が増えても、道の端には古い境界杭が埋まったままで、そこだけ土の色が違う。掘り返せば根が絡み、砂利を敷けばすぐに沈む。そういう土地だった。
現場は小さな解体と埋め戻しの工事で、トラックの荷台には小型ショベルが載っていた。アームは折り畳まれ、油圧の光沢だけが冬の陽を受けている。手前には青いヘルメットが置かれ、赤いコーンと資材袋が寄せられている。休憩に入ると、作業の音は急に薄くなる。人間がいなくなるのではなく、“現場の呼吸”だけが残る。
最初に変だと思ったのは、トラックの荷台後部の下だった。
影のいちばん濃いところに、靴があった。つま先と踵だけが見える。誰かがしゃがんでいるのなら、膝や脛の輪郭があるはずなのに、そこには靴だけが揃っている。車体に付いた予備タイヤのすぐ脇で、靴が、地面に“立っている”。
「誰か潜ってるのか?」
声を掛けても返事はない。覗き込んでも、人の身体は見当たらない。トラックの下は狭い。隠れようにも、隠れる余地がない。
それなのに、靴はある。
休憩が終わって作業が再開すると、靴は消えた。砂利の上に足跡はない。ただ、そこだけ黒く湿っている。畑の黒土みたいな湿り気が、砂利の間からじわじわ滲んでいた。
次の日も、その次の日も。
休憩に入る瞬間だけ、靴が現れた。場所も少しずつ変わる。トラックの下から、資材袋の陰へ。赤いコーンの影の端へ。青いヘルメットの置き場所の近くへ。いずれも共通して、空気が一段冷える。誰かが喋っていても、その場だけ音が吸われる。耳の奥が詰まるような静けさが来る。
三日目の昼、誰かがふざけ半分で砂利を蹴った。
靴のつま先に小石が当たった瞬間、砂利ではない音がした。ずぶ、と湿った土を踏む音。畑の畝を歩くときの音だ。靴が、砂利を踏まずに“一歩”だけ進んだ。
誰も触れていないのに。
慌てて全員で覗くと、靴は確かに前へ出ていた。道路側へ、逃げるように揃えて。靴底には黒土がべったり貼りつき、細い根が絡んでいる。現場の砂利じゃない。畑の土の色だった。
そのとき、荷台の上でショベルのアームが、きい、と鳴った。
止まっているはずの油圧が、ほんのわずかに抜ける音。金属が呼吸するような軋み。誰もレバーに触れていないのに、折り畳まれた腕が数センチだけ開き、関節が“指”みたいに曲がった。
指先は、現場の外――畑の端を指していた。
畑の端には、掘る予定のない細い溝があった。浅くて、見落としてもおかしくない。だがそこだけ、土の色が濃い。黒く湿り、根が絡まり、なにかを抱え込んでいる。
作業は予定通り進められた。境界杭を抜き、埋め戻すために土を切る。
バケットの先が溝の縁に触れた瞬間、靴が“歩いた”。
二歩、三歩。ずぶ、ずぶ。湿った土の音だけを残し、靴は溝へ向かう。身体がないのに、足首から上がないのに、靴だけが確かな意志で進む。砂利には跡が残らない。代わりに、砂利の間から細い根が一本ずつ這い出し、黒土の湿りが線になって伸びていく。
溝の土が割れた。
出てきたのは、古い長靴だった。片方だけ。土に押しつぶされ、履き口は裂け、内側は空っぽなのに、爪で引っ掻いたような傷だけが残っていた。助けを呼ぶための傷ではない。地面の下から“出たがって”、ずっと、ずっと掻き続けた傷だ。
誰かが呟いた。「昔、この辺で……」
言い終わる前に、ショベルがもう一度きい、と鳴った。油圧の吐息が短く抜けて、まるで笑ったみたいに聞こえた。
それ以降、現場は奇妙な習慣を覚えた。
休憩のたびに、誰かが青いヘルメットの位置を変える。コーンを少し動かす。資材袋を寄せる。靴が“立つ場所”を塞ぐために。だが、塞げば塞ぐほど、靴は別の場所に立つ。影の濃いところへ、境界の近くへ、畑の湿りの匂いが届くところへ。
工事が終わり、更地になっても、畑の端の溝だけは乾かない。
風もない昼に、砂利がずぶ、と鳴ることがある。
そしてその音は、決まって休憩の時間にだけ聞こえるのだと、近所の人が言った。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



