空室の増える夕景

写真怪談

夕方になると、部屋の明かりがいっせいに点くマンションがある。正確には、点くはずの時間に点かない窓が増えていくマンションだ。

線路でも幹線道路でもないのに、そこだけ風の流れが途切れる。街の音が薄くなり、遠くの犬の声が、すり減った紙の上を転がるみたいに聞こえる。見上げると、コンクリートの肌が夕陽を吸って、ぬるい色をしている。

その手前では、新しい住宅が建てられていた。骨組みが立ち上がり、格子のように組まれた金属が空を切り取り、黒いネットがたわんでいる。さらに手前の空き地には資材置き場があり、簡単な小屋みたいな屋根がブルーシートで覆われていた。誰が見ても“工事のある日常”だ。けれど、その日常が、ある日からほどけていった。

きっかけは、私がそのマンションに引っ越したことだった。理由は単純で、職場に近く、家賃も相場より少し安かった。内見のとき管理会社は言った。「上のほう、空いてますけど、眺めがいいですよ。夕方は特に」――“特に”が、やけに丁寧だった。

住み始めて一週間ほどは普通だった。工事の音も、ブルーシートの屋根が風で鳴る音も、生活音の一部になっていった。問題は、夕方の十五分だけだ。

日が傾き、マンションの外壁に影が長く貼りつく頃。屋上の手すりと設備が黒く締まり、中央の塔のような部分が、空に刺さった鉛筆みたいに見える時間。私は決まって、窓辺に立ってしまう。何かを待つわけじゃないのに、待ってしまう。

その日は、工事の作業員が資材置き場のほうで片付けをしていた。ブルーシートの屋根の下に長い板材を滑り込ませ、ロープを引いて、影をまとめるみたいに閉じていく。遠目に見ても乱雑な作業で、屋根の端が少しめくれて、中が黒く口を開けた。

その“黒”が、息をした。

私の目の錯覚かと思った。夕暮れはなんでも歪ませる。けれど黒は、ふわりと膨らみ、次の瞬間、縮んだ。呼吸と同じ間隔だった。作業員は気づかない。気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、判断できないほど淡々と手を動かしていた。

息をしているのは、シートの下ではない。シートの下にできた“空き”そのものだった。空気の欠けが、臓器みたいに脈打っている。

私は思わずカーテンを引いた。外を見ていることが、向こうに伝わりそうだったからだ。妙な理屈だ。けれど、その理屈でしか説明できない恐怖があった。

夜になっても、脈打つ黒は頭から離れなかった。眠ろうと目を閉じると、マンションの階層が縞模様になって浮かび、バルコニーの手すりが歯列のように並ぶ。中央の塔は喉で、屋上のアンテナは、喉の奥に刺さった骨に見えた。

翌日、掲示板に紙が一枚貼られた。
「○○号室 郵便物が溜まっております。お心当たりの方はご連絡ください」

その紙は、翌週には三枚になり、次の週には五枚になった。紙の増え方が、夕方の暗さの増え方と似ていた。少しずつ、確実に。

近所の人から、囁くような話を聞いた。
「ここ、空室が増えるって有名なのよ。引っ越しても、次が入っても、同じ部屋がまた空くの」
「事故物件ってことですか」
「事故は……どうだろうね。事故っていうより、“数”が合わないのかも」

数が合わない。意味がわからなかった。

数が合わない、という言い回しに答えが出たのは、工事が中盤に差し掛かった頃だ。新築住宅の足場はさらに高くなり、黒いネットが風で波打つようになった。資材置き場のブルーシート屋根も、材料が増えた分だけ盛り上がり、端をロープで縛られて、腹を括られたみたいな形になっていた。

その日も、夕方の十五分が来た。

私はカーテンを少しだけ開けた。見ない、と決めていたのに、見てしまう。窓枠の隙間から覗く景色は、舞台の袖から覗くみたいに現実味がない。

マンションの外壁に、ひとつ“余分な影”があった。

影は、部屋の形に沿って伸びるはずだ。ところがその影は、どの窓にも属していない。バルコニーの端から端へ、水平に張りつき、途中で折れて階段室のほうへ這い、中央の塔の壁を伝って上へ上へと昇っていた。

それは影ではなく、影のふりをした何かだった。濃さが違う。輪郭が、意思を持っている。

影のふりをしたそれは、屋上に着くと、いったん止まった。手すりの向こうに、何かが“立った”ように見えた。人の形だった。けれど、体が薄すぎた。正面なのに、厚みがなく、紙を立てたみたいに頼りない。

そして、そいつは振り向いた。

振り向いた、というより、こちらに“面”を向けた。顔はない。目も口もない。なのに、こちらを見ているのがわかった。見られている、ではない。数えられている。

ぞっとしてカーテンを閉めた瞬間、壁の内側から、乾いた音がした。

コン、コン、コン。

ノックじゃない。もっと硬い。コンクリートの向こう側から、規則正しく叩く音。私は玄関のほうを見た。誰もいない。次の瞬間、音は天井のほうへ移った。まるで、見えない誰かが“上へ上へ”と移動しているみたいに。

コン、コン、コン。

頭上。さらに頭上。屋上に向かう階段の方向へ、音が吸い込まれていく。

翌朝、管理会社から連絡が来た。
「上階の点検で、屋上に上がることがあります。騒音が出たらすみません」
点検。タイミングが良すぎる。

私は意を決して、屋上に上がった。昼なら平気だと思った。昼の屋上は、ただの設備と風と空だ。夕方の十五分とは違う。

屋上の扉を開けた瞬間、鼻に刺さる匂いがした。濡れた鉄と、古い布と、土の匂いが混ざったような匂い。ここはコンクリートと金属しかないはずなのに。

中央の塔の壁際に、何かが落ちていた。黒い布切れ。いや、布ではない。ネットだ。工事現場で使う黒い防護ネットの切れ端。引き裂かれたように、繊維が毛羽立っている。

そのネットの上に、粉が散っていた。灰色の粉。触ると指先にざらつく。コンクリートの粉だ。けれど、粉の上に――細い線が引かれていた。

数字だった。

1、2、3、4……それが、途中で途切れ、もう一度1から始まり、また途中で途切れている。書いたのは人間の字じゃない。線が均一すぎて、定規で引いたみたいに真っ直ぐで、なのに震えている。震えではなく、微細な“揺れ”が続いている感じ。

私は背中が冷えた。数えている。誰かが、何かが、このマンションを数えている。

そのとき、屋上の手すりの影が、ありえない形に折れた。太陽の位置から考えると、影は向こう側に伸びるはずなのに、影だけがこちらへ、こちらへ、伸びてくる。

私は動けなかった。影が私の足元まで届いた瞬間、体温が持っていかれる。影は冷たいのではなく、私の“存在”を薄くする。輪郭がほどける感覚。名前が遠くなる感覚。

影の先に、立っているものがいた。

昨日見た“紙みたいな人”より、はっきりしている。黒いネットが絡みついたような身体。ブルーシートの青が、部分的に貼り付いている。腕の形は、足場の鉄パイプみたいに直線的で、関節がない。頭の位置には、屋上のアンテナと同じ細い棒が突き出ていて、そこから糸みたいな影が垂れていた。

それは、人の形に似せているだけだ。人ではない。工事のために積み上げられた“仮の構造”が、勝手に人の形を借りて動いている。

そいつは、私の足元の影を踏んだ。踏まれた瞬間、私は息ができなくなった。肺が潰れるのではなく、息という概念が消える。呼吸の“数”が、抜き取られる。

視界の端に、資材置き場の青い屋根が見えた。遠いのに、妙に鮮明だった。シートの端が、ふわりとめくれている。昨日の“黒”が、また息をしている。屋根の下の空きは、喉の奥みたいに暗い。その暗さと、私の足元の影が、一本の線で繋がっていた。

理解した。屋根の下の“空き”が本体だ。屋上に立っているのは、その影の手先。足場もネットも、材料も、空き地も、全部“仮”でできている。仮のものが増えるほど、あれは形を得てしまう。数が合わなくなるほど、あれは“足りない分”を取りに来る。

コン、コン、コン。

どこからか、あの硬い音がした。今度は私の中からだ。胸骨の裏、喉の奥、歯の根。体の内側で、誰かが数を刻んでいる。

私は必死に、声にならない声で数えた。
1、2、3……自分の呼吸を、存在を、ここに繋ぎ止めるために。

影の手先が、私の顔の前まで伸びてきた。顔がないのに、こちらの表情を確かめるみたいに近づく。私は目を閉じた。閉じた瞼の裏に、マンションの窓が並ぶ。点くべき灯りが点かない窓が増え、暗い窓が歯になり、階段室が喉になり、屋上が口の端になる。

そして、口が開く。

音はしない。けれど“開いた”ことだけがわかる。空きが広がる。数が合わない空きが、私の輪郭を吸う。

その瞬間、遠くで金属が鳴った。工事現場のほうだ。誰かが足場のパイプを落とした音。現実の重い音。私はその音にしがみつくように、体を引きずって屋上の扉へ向かった。

扉を閉める間際、影の手先が、ぎりぎりまで追ってきた。扉の隙間に、黒い線が差し込まれる。私は全身で押し返した。蝶番が呻き、扉が閉まった。

廊下に戻ると、息が戻った。急に空気が重い。涙が出た。泣いているのか、呼吸の“数”を確かめているのか、自分でもわからなかった。

その夜、掲示板の紙が一枚、増えた。

「○○号室 退去済み」

私は自分の部屋番号を見た。紙には、見覚えのある数字があった。私の部屋の上階だ。昨日まで、洗濯物が干されていたベランダ。

点くはずの灯りは、点かなかった。

翌日、私は管理会社に退去を申し出た。引き留められはしなかった。手続きは滑るように進み、敷金の話も、原状回復の話も、驚くほど事務的だった。

最後に、担当者が小さな声で言った。
「夕方、窓、見ないでくださいね」
忠告ではなく、確認だった。まるで、もう何人も同じことを言われ、同じように見て、同じように消えたみたいに。

引っ越し当日、荷物を運び出す合間に、私は一度だけ振り返った。マンションは夕陽を浴びて、静かに立っていた。中央の塔が空に突き刺さり、屋上の手すりが細い線になっている。

手前の工事現場では、黒いネットが風でふくらんで、またしぼんだ。

資材置き場の青い屋根の下で、見えない“空き”が、確かに息をしていた。

そしてマンションの窓が、ひとつ――私のいた部屋の窓が、遅れて点いた。誰もいないはずの部屋の灯りが、夕方の十五分の終わりに、ぽつりと灯った。

その明かりは、招くためではない。
数を合わせるためだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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