硬貨専用

写真怪談

郊外の住宅地の端に、農園の直売所がある。畑の脇に簡易な屋根が掛けられていて、その前にコインロッカー式の販売機が据え付けられている。

ガラス扉の小部屋が縦横に並び、黄色い取っ手と赤いレバー。値札は「200」と「300」。手書きの札が貼られていて、「砂糖不使用 ドライキウイ」「ゆず一味」「(厚)切り干し大根」。縦に貼られたラベルはかすれて「○産フ○ーツ」としか読めない。たぶん「直産フルーツ」だろう、と誰もが思う程度の擦れ方だった。

最初に前を通った日、私は小銭を持っていなかった。百円玉しか使えない注意書きが目に入って、買うのは諦めた。ゆず一味とドライキウイが気になって、「今度、硬貨を入れて来よう」とだけ思って、その場を離れた。

それから妙に気になって、何度か前を通るようになった。

人通りは少ない。直売所の前で立ち止まっている人を見たことがない。なのに、商品は減る。昨日まで袋が入っていた小部屋が、今日は空になっている。

全部が一気に無くなるわけじゃない。決まって、中央の「ゆず一味」と、左の「ドライキウイ」が先に消える。次いで、右の「切り干し大根」。売れているのかもしれない。そう思いたいのに、人の気配がない。

昼間に補充に来ていた農園の人に、何気なく聞いた。
「売れてるんですか」

彼は曖昧に笑った。
「売れてる、って言えば売れてるんだけどね」

言い方がひっかかった。私が黙っていると、彼は声を落とした。
「現金箱が、いつも軽いんだ。棚は空くのに、硬貨が増えてない。こじ開けられた跡もない。だから……“売れてる”って言うしかない」

「じゃあ、誰が……」
言いかけた時、彼は販売機を見ずに言った。
「順番どおりにやれば、普通に開くよ。①に硬貨、②の扉、レバーは“あける”のほうに回す。それだけ」

その夜、用事の帰りに私は直売所の前を通った。住宅街は寝静まり、畑は黒く沈んでいる。街灯の白い光だけが、販売機のガラスを薄く照らしていた。

中央の小部屋、「ゆず一味」の札の前で足が止まった。ガラスの内側が、妙に曇っている。外気の湿気ではなく、吐息で曇らせたみたいな薄い膜が張っている。

貼り紙の手順が目に入る。①は硬貨投入口。②は扉の番号。取っ手のそばに丸い「2」の印がある。

次の瞬間、硬貨の音がした。チャリン、と一枚。さらに、チャリン。投入口の奥で金属が擦れ合う、あの鈍い音。私は反射的に投入口を見た。

百円玉が一枚、ゆっくり“上がって”きた。

落ちてきたのではない。押し出されたのでもない。内側から、呼吸するみたいに、じわりと現れる。縁が見え、表が見え、最後に数字が見えた。

二〇〇。

そんな硬貨はない。見間違いだ、と頭が言う前に、赤いレバーが小さく震えた。誰も触れていないのに、レバーが“あける”と印字された方向へ、ほんの数ミリ、ねじれるように回る。

戻る。
また回る。
迷っているような動きじゃない。手順をなぞっている。①に硬貨、次に②の扉、そして――“あける”。

カチン、と乾いた音がした。鍵が外れる音だ。黄色い取っ手が、内側から押される。扉が、こちらへ開こうとする。

私は思わず一歩引いた。ガラスの反射が変わった。背後の住宅街でも畑でもない、暗い廊下のようなものが映っている。低い天井。長い壁。どこかで水が滴る音。

目を逸らしたはずなのに、ガラスの向こうも同じだった。

小部屋の奥が、棚になっていない。奥行きのないはずの空間が、ずっと遠くまで続いている。空っぽの段が並び、点々と袋が置かれている。袋には札が貼られ、札には食べ物の名前が書かれている。けれど、文字の一部が欠けている。

「○産フ○ーツ」

かすれて読めない丸の部分が、その瞬間だけ黒く滲んで見えた。丸じゃない。欠けじゃない。文字だ。

死産フルーツ。

読めた瞬間、喉が鳴った。

棚の奥から、何かが動いた。人影のように見えるのに輪郭が安定しない。薄い袋の束が、重力を忘れたみたいにこちらへ滑ってくる。ビニールが擦れる音。乾いた野菜の匂い。柑橘の皮を潰したような酸っぱさ。ガラス越しに滲んでくる。

視線が「ゆず一味」の袋に吸い付いた。

袋の中身は粉じゃなかった。細い欠片が、赤い粒に混じっている。どれも薄く弓なりで、切り口が揃っている。爪だ。削ったばかりみたいに艶がある。

注意書きが意味を持った。
「※とても辛いので少しずつお使いください」

少しずつ。削って、混ぜて、減らしていく。何を。誰を。

扉の隙間が指一本分、開いた。そこから冷えた空気が漏れた。室内ではない。地下の土の匂いに近い、湿った冷気。

赤いレバーが、もう一段“あける”へ回った。

私は、その場から走って逃げた。背中に、開いた扉の気配が貼りついてくる。何かが、手順どおりに購入を済ませた客に、ちゃんと商品を渡そうとしている。

翌日、農園の人に昨夜のことを話すと、彼は黙って頷いた。
「変な硬貨、見た?」
「二〇〇って……」
「うちは値札に合わせて貼っただけなのに、たまに“二〇〇”“三〇〇”が一枚だけ入ってる。捨てたこともある。けどね」

彼は乾いた笑いをした。
「捨てると、戻ってくるんだ。財布の中とか、玄関の靴の中とか。現金箱より先に、うちに戻ってくる」

その話のあと、近所の空き家が一軒増えた。引っ越したのだと噂になった。でも表札はそのまま。カーテンもそのまま。車もそのまま。夜だけが真っ暗だった。

私は、販売機の前を通るたびに数えるようになった。空の小部屋が増えるたび、住宅の灯りが一つ減る。売り切れるたび、誰かが“少しずつ”いなくなる。

それでも私は、ゆず一味とドライキウイを買いたいと思っていた。自分でも嫌になるほど、気になっていた。硬貨さえ持って行けば、ただの買い物で済むのだと、自分に言い聞かせたかった。

次の週、私は財布に百円玉を多めに入れて家を出た。

直売所の前まで来て、財布を開いた。

百円玉は、なかった。

代わりに、見慣れない硬貨が一枚だけ入っていた。縁が妙に冷たく、重い。
二〇〇。

私は息を止めたまま販売機を見た。

中央の「ゆず一味」の小部屋だけ、ガラスの内側が薄く曇っていた。中の袋は、新しく補充されたばかりのはずなのに、何かが押し当てられた形で歪んでいる。

袋の内側に、薄い指の跡が五つ。ぴたりと揃って、こちらに向かって押し付けられていた。

それは、待っている形だった。
①に入れる硬貨を。
②の扉を。
そして、“あける”へ回す指を。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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