町外れの住宅街にある小さなスーパーが、元旦の昼過ぎに開いていた。
初詣帰りの人がまばらに歩く程度の静かな通りで、ガラス扉の向こうだけが平日みたいに明るい。
扉にはカード会社のステッカーや細かな注意書きがいくつも貼られている。
その真ん中に、白い縦札がクリップで留められていて、大きく「謹賀新年」と書かれていた。
珍しいな、と思っただけだ。
正月から営業している店がある。近所でそういう話を聞くこともある。切らしていたものを思い出して、つい足が向いただけだった。
扉を押すと、縦札が揺れた。
紙なのに、風鈴みたいな揺れ方だった。軽く触れただけなのに、いつまでも戻らず、ゆっくりゆっくり、元の位置に「寄っていく」。紙の端がガラスに擦れて、きゅ、と細い音がした。
店内は青果売り場が正面に広がっていた。
照明が強く、葉物の水滴がきらきらしている。値札の色も、陳列のリズムも、いつもの店だ。
ただ、客が一人だけ、青果の前で立ち止まっていた。
ダウンの背中。買い物かごの持ち方。全部自然なのに、足元だけが変だった。
靴底の下に、薄い水が溜まっている。
床が濡れているわけじゃない。濡れているのは、その人の足元の一画だけで、そこだけが妙に黒い。天井の灯りが反射して、ぬるりと光っていた。
青果の水でもこぼしたのだろう。
そう思って棚に目を移した瞬間、値札の小さな文字が目に刺さった。
「白菜 1/1 取り置き」
「長ねぎ 1/1 引き換え」
「みかん 1/1 未回収」
元旦の特売のメモだろう、と済ませかけて、手書きらしい苗字が添えられている札が混ざっているのに気づいた。
二文字。どこかで見た字だ。近所の角の家の表札と同じだった。
縁起でもない、と目を逸らした。
正月から他人の名前を連想するのは嫌だった。必要なものだけ選んで、早く帰ろうと決めた。
レジは無人で、セルフ精算機だけが稼働していた。
バーコードを読み取る赤い光が、商品をなぞって数字を積み上げていく。合計金額も、何もおかしくない。
最後にエコバッグを置いたとき、精算機の鏡面に自分の手が映った。
指の影が、いつもより濃い。ライトのせいだと思って目を離しかけて、もう一度見て、息が止まった。
影が、手の形と合っていない。
指が一本、余っている。しかもそれは、こちらの手の影じゃなく、影だけが「遅れて」いるみたいに少し横にずれていた。
慌てて手を引っ込めた。
なのに影だけが、ほんの一拍、そこに残った。
画面が一瞬暗転し、レシートが吐き出された。
「ご利用日 1/1」
年号が印字されていない。故障かと思って購入品の一覧を見ると、最後に見慣れない一行があった。
「おつり — 欠け 1」
欠け。
金額の欄は空白で、読もうとすると目が滑る。紙の繊維の奥に、別の字が沈んでいるようにも見えた。
そのまま店を出た。
ガラス扉の縦札が、また揺れた。さっきよりも大きく揺れて、裏側が一瞬だけ見えた。
裏には、赤い丸がもう一つあった。
表の「日の丸」より小さく、薄く、滲んだ赤。親指の腹を押し当てたみたいな形が、いくつも重なっている。指紋みたいな跡が、昨日より一つ増えている気がしたが、誰のものかなんて分かりようがない。
なのに、手が勝手に伸びた。
汚れだと思って拭おうとしただけだ。ガラスに親指の腹を当てた瞬間、ひやりと冷たさが沁みて、皮膚の奥を吸われるような感覚が走った。
反射的に指を離す。
ガラスの内側に残っていた滲みが、外側へ“にじみ出てくる”みたいに濃くなり、輪郭がくっきりした。逆に、自分の親指の腹は、粉をはたいたみたいに白く乾いている。皺はあるのに、いつもあるはずの細かな線が薄い。
家に戻って、買ったものを冷蔵庫に入れた。
ねぎの切り口が妙に黒ずんでいる。卵の殻に細い引っかき傷が何本も走っている。豆腐のパックのフィルムが、開けてもいないのに少し浮いていて、そこから冷たい匂いが漏れていた。
気分の問題だ、と自分に言い聞かせてスマホを開いた。
ロック解除が通らない。何度指を当てても弾かれる。設定画面で読み取りを試しても、読み取り枠の中に出るはずの模様が、うまく出てこない。そこだけ皮膚が“新品”みたいに滑っている。
カレンダーを見て背中が冷えた。
一月一日のマスだけ、何も書けないくらい真っ白だった。数字も曜も、祝日を示す赤もない。そこだけ紙が新しいみたいにさらさらしている。
写真アプリも通知履歴も、なぜか二日から始まっていた。
スクロールすると「一日」の手前で止まる。見えない段差があるみたいに、指が引っかかる。
レシートだけは残っていた。
紙の端が、さっきより少し湿っている。薄かった「欠け 1」が、じわじわ濃くなっていく。濃くなった字は、欠けではなく別の文字に見えてきた。
「欠け」じゃない。
「棚」だ。
棚卸しの棚。
在庫を数えるための棚。
翌朝、回覧板が回ってきた。
年始の挨拶と、防犯の注意。その最後に小さく、「昨年末から連絡が取れない方がいます」と書かれていた。苗字は、昨日スーパーの値札で見た二文字だった。
その日の昼、恐る恐るスーパーの前を通った。
閉まっている。年始休業の張り紙も出ている。なのにガラス扉の「謹賀新年」の縦札だけは、昨日と同じ位置に留まっていた。
ただし、年号だけが一つ進んでいた。
まだ来てもいない年の「元旦」が、先に飾られている。
ガラス越しに店内を見ると、青果売り場の床の黒い水たまりが、昨日の位置で固まっていた。
その中心に、買い物かごがひとつ置きっぱなしになっている。取っ手の部分に、乾いた指紋がいくつも重なって、赤茶色に染まっていた。
縦札の裏の赤い指紋の群れに、ひとつだけやけに鮮明なものがある。
昨日、自分が当てた角度と同じ向きで。
あれが自分の指紋だなんて、見ただけじゃ分からない。
でも分からなくていい。
指が、もう“持っていない”のだから。
それ以来、元旦の話題になるたび、みんなは口を揃えて言う。
「あの店、昔から元旦もやってたよね」
違う。去年まで閉まっていた。
そう言い返そうとすると、頭のどこかで紙が擦れる。きゅ、と細い音がして、言葉が棚に戻される。
一年の最初の一日が、誰かの在庫表に転記された。
そして棚札の裏で、赤い指紋だけが増えていく。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


