相席の締め

晩酌怪談

年末の居酒屋は、空気が重い。
揚げ物の油、濡れたコート、アルコールの甘さが一つの層になって、木の壁に貼りついている。

「相席、よろしいですか」

通されたのは入口に近い二人席だった。メニュー立てと透明の仕切りが、席の真ん中に立っている。
その仕切りの向こう側に、すでに客がいた。

黄色い上着の男が、腕を枕にして突っ伏している。
寝息が聞こえるほど静かではないはずなのに、あの席だけ音が吸われたみたいに静かだった。締めに頼んだのだろうチャーハンが目の前にあるのに、手は一度も伸びていない。

仕切りの陰に、飲みかけのグラスが見えた。
琥珀色の酒と氷。置いたままの重みが、そのまま残っている。

私は軽く会釈だけして腰を下ろし、店員に注文を伝えた。
疲れているのだろう。年末だ。潰れるほど飲む人もいる。
そう思って、深く考えないことにした。

最初に変だと思ったのは、音だった。

「……カチ」

氷の鳴る音。
でも、誰もグラスに触れていない。男も動かない。仕切りの向こうの酒だけが、勝手に小さく鳴った。

それから、私が箸を取るたびに、同じ「カチ」が返ってくるようになった。
私が一口食べると、向こうでも鳴る。
私が箸を置くと、向こうは静かになる。

相席の男は、まったく動かないのに。

おかしいと思い、仕切り越しに皿を見た。
向こうのチャーハンは、もう湯気がほとんどない。表面が少し乾いて、赤い漬物だけが妙に鮮やかに残っている。時間が先に進みすぎた食べ物の顔だ。

その赤が、なぜかこちらの皿の端にもちらつく気がした。
まだ私の注文は来ていないのに。

店員が「失礼します」と調味料の位置を直したとき、箸立てが目に入った。
白い割り箸がぎっしり詰まっている。その中に一本だけ、濡れたみたいに黒い“箸”が混じって見えた。
影だ、と自分に言い聞かせた瞬間、その黒だけがわずかに傾いた。

黒い“箸”が、今度ははっきりとこちらへ傾いた。
倒れた先端は机に触れたままなのに、なぜかその向きだけが私の喉元を正確に指しているように見えた。
長さは変わらないはずなのに、視界の中で“黒い線”だけが伸びて、喉に触れるところまで距離が詰まる。
近づいているのは箸じゃない。私のほうだ――そんな錯覚が、息の通り道を細くした。

私は視線を外し、割り箸を握り直そうとした。
その瞬間、指の力が抜けて、使っていた割り箸がするりと落ちた。

騒がしい店内だ。床に当たったところで、そんな小さな音が聞こえるはずがない。
それなのに――耳の奥だけに、異様に乾いた「カチ」が鳴った。
まるで頭蓋の内側を箸先で叩かれたみたいに、近すぎる音だった。
周りの笑い声も皿の触れ合う音も途切れない。誰もこちらを見ない。
音は外では鳴っていないのに、私だけが“聞かされている”。

同じ「カチ」が、仕切りの向こうのグラスからも返ってきた。
氷の音と、頭の中の音が、ぴったり重なる。

そのとき店員が、私の前に皿を置いた。

「締め、こちらです」

熱い湯気の立つチャーハン。
頼んでいない。けれど皿は確かに私の前にある。

抗議しようとして、仕切りの向こうを見た。
相席の男の皿は、もう完全に冷めきっている。赤い漬物だけが、置き去りの目印みたいに残っている。
そして飲みかけのグラスの酒は、さっきより少し減っていた。誰も飲んでいないはずなのに。

私は理解しかけた。
あの男は、酔いつぶれたのではない。
締めの皿に手をつけないまま、席の“向こう側”に落ちたのだ。

年末の居酒屋には、相席の席がある。
詰め込まれた客を捌くための相席じゃない。
年を閉じるために、店が一つだけ必要とする“相席”。

締めを残した者は、席に居残る。
居残った席は、次の客に締めを回す。
回された客が食べれば、飲みかけの酒は減りきって終わる。
食べなければ、次は自分が仕切りの向こうへ移る。

黒い“箸”が、喉元を指したまま、微動だにしない。

私は黙って、熱いチャーハンに箸を入れた。
一口運ぶたび、仕切りの向こうで氷が鳴る。
私が噛むたび、相席の男の肩が、ほんのわずかに上下する気がした。呼吸ではない。咀嚼のリズムに合わせた揺れだ。

食べ終わった瞬間、向こうのグラスが最後に一度だけ「カチ」と鳴り、静かになった。
氷が溶け切った音だった。

相席の男は、まだ突っ伏している。
けれど、もう“飲みかけ”は残っていない。
仕切りの陰のグラスは、空になっていた。

会計を済ませて外に出た。
冷えた夜気に息が白くなる。振り返ると、ガラス越しにあの席が見えた。

相席の男は、まだそこにいる。
黄色い上着のまま、締めの皿の前で、動かない。

ただひとつだけ違っていた。
仕切りのこちら側――私が座っていた側にも、飲みかけのグラスが置かれていた。
琥珀色。氷がいくつか。底に薄い輪。

次の相席が来るまで、あの席は“締め”を終えない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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