赤丸の値札が消えない夕方

晩酌怪談

うちの店は、十二月の午後四時を過ぎると軒先の空気が変わる。暖簾を出し直して、表の灰皿を拭いて、開店前の段取りを終える頃。通りはまだ明るいのに、入口の前だけが一段冷えて、息を吸うたびに喉の奥が細くなる感じが残る。

軒先の棚には、布袋さまがどっしりと座り、こけしたちが何体も並んでいる。顔の塗りが薄れたもの、赤い模様が残るもの、目を細めているもの。飾りは客寄せのつもりだったが、年々「店の一部」になっていった。誰かが勝手に触ることもない。だから、変化にはすぐ気づく。

その日も予約の電話を切ってから、手書きのメニューに目をやった。赤い丸で囲われた品書きが、やけに生々しい。インクの赤が、冷えた血の色に近い――そう思った瞬間、棚の奥で「カチ」と乾いた音がした。

中央のこけしの首が、ほんのわずか傾いていた。倒れたわけじゃない。こちらへ数度、“寄って”いるだけ。誰も触れていない。風もない。なのに、傾きの角度だけが“今さっき”生まれたみたいに新しい。

私は一度目を逸らし、もう一度戻した。こけしの首は、まっすぐに戻っていた。代わりに、右端の背の高いこけしの閉じた目元に、黒い筋が一本増えている。木目の割れじゃない。涙の跡みたいに、上から下へ確かに伸びていた。

背中に寒気が走った。私は棚の並びを“数え直す”のをやめた。数え直すと、必ず一体増える。そんな確信だけが、根拠もなく胸に刺さっていた。

閉店後、軒先を片づける時間になった。赤丸のメニューを外そうとして手が止まる。テープの端がやけに硬い。剥がすと紙が破れて、破れた断面から赤い丸が滲み出すように広がった。インクが紙の裏へ、木へ、空気へと染みていくみたいに見えた。

同時に、棚の奥から小さな足音がした。木が木を叩く音。コツ、コツ、コツ。幼い子が板の間を素足で歩くような音。

私は声が出なかった。音は棚の前で止まり、代わりに「見られている」感覚だけが増した。こけしたちの目が開いたわけじゃない。けれど、目が“こちらへ向いた”のが分かった。角度ではなく、視線の密度だけが変わった。

怖くて、私は布袋さまの腹を見た。黒い腹の艶に、店内の蛍光灯が一本、白く伸びている。その光の中に――私の顔とは別の、もう一つの顔が重なっていた。薄いのに輪郭だけがくっきりして、目の位置が低く、口が細い。木の人形の顔を、人間に貼り替えたような歪さだった。

振り返っても、誰もいない。店の中にはいつもの匂い、いつもの音。私の視界だけが、軒先の棚で引っかかっている。

また布袋さまの腹を見る。さっきの“もう一つの顔”はいない。代わりに、こけしの顔がいくつも重なって映っている。棚にあるはずの顔、あるはずの赤、あるはずの削れ。

――いや、一つだけ知らない顔がある。

丸く、塗りの薄い目。口元だけが妙に赤い。顔の位置が低すぎる。棚の下、誰も置いていないはずの影から覗いているみたいに。

私は反射的に棚の下へ視線を落とした。そこには落ち葉と埃と木の欠片しかない。なのに、その木の欠片が、ゆっくりと“首”の形に揃っていくのが見えた。欠けた木が寄り集まって丸くなり、節が目になり、割れが口になる。最後に、どこからか赤い線が一筆だけ走って、唇ができた。

コツ。

足音が、ぴたりと止む。

次の瞬間、棚の並びがほんの少しだけ変わっていた。私は確かめなかった。確かめれば、そこに“いる”ことを認めることになる気がしたからだ。

翌日、午後四時を少し回った頃。常連が「今日は妙に寒いね」と笑いながら入ってきた。私は笑い返せず、軒先の棚を見ないようにした。けれど、入口のガラスに映る影だけで分かった。

布袋さまの腹の光沢に、また“知らない顔”がいる。
今度は、私の背中のすぐ後ろに。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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