赤と緑の立入禁止

写真怪談

冬の明け方四時、空はまだ夜のままで、息を吐くたび白くほどけた。交差点の角、広めの歩道が工事で塞がれている。赤白のコーンが並び、横棒が何重にも渡されて、まるで人が入ってはいけない形を強調している。

その中を、点字ブロックの黄色い帯だけが、L字に折れながら真っ直ぐ突っ込んでいた。導くための線が、塞ぐための柵に吸い込まれている。目が悪い人が来たら、手掛かりごと行き止まりにぶつかるだろう。そう思った瞬間、胸の奥に小さな不快が残った。

コーンの頭に乗った灯体が、同時に消えた。次の瞬間、緑が一斉に点いた。消灯。次は赤。消灯。緑。赤。規則正しい、いっそ機械的な呼吸だった。

信号でもないのに、歩道の上で「止まれ」と「進め」が反転する。しかも、誰に向けてなのか分からない。夜更けの工事現場で見る点滅は、ただの安全対策のはずなのに、あまりに揃いすぎていて、こちらが監視されているみたいだった。

いちばん暗いのは、画面中央から上にかけて伸びる民家の壁だ。黒い帯のように、灯りを吸っている。塗り潰したように見えるほど影が深いのに、そこが「家」だと分かるのが、かえって怖かった。人の暮らしの壁が、夜の底に口を開けている。

迂回路へ向かおうとして、足が止まった。工事規制の内側、点字ブロックの先端あたりで、靴底が擦れる音がしたのだ。シャッ、シャッと、乾いた擦過音。誰かが横棒の向こうで足を引きずっている。

だが、姿は見えない。見えるのはコーンと横棒と、濡れたアスファルトの鈍い光だけ。緑が点いたとき、影の濃淡が一瞬だけ変わって、壁の手前に「立っている」ような輪郭が浮いた。人の胴体の幅。肩の線。頭の丸み。

消灯。

赤が点く。

輪郭は消え、ただの壁に戻る。次の消灯で、また緑。輪郭は、少しだけこちらへ寄った。

近づいている。

目の錯覚だ、と自分に言い聞かせた。暗いからだ。点滅の残像だ。寒さで集中が切れている。どれも合理的な言い訳だった。なのに、その輪郭の“歩幅”だけが、妙に現実的だった。

シャッ、シャッ。音は点滅に合わせているわけではない。点く・消えるの合間、真っ黒の瞬間にだけ聞こえる。視界が断ち切られた一拍の間に、何かが動く。

気づけば、横棒の隙間を覗き込むようにしていた。コーンの列は、ただ塞いでいるのではなく、通路の形に組まれている。入れないようにしているのに、入りたくなる迷路を作っている。点字ブロックはその中心へ、真っ直ぐ導いている。

消灯。

緑。

その瞬間、コーンの灯体が「目」に見えた。三つの光点が並び、顔のようにこちらを覗く。いくつも、いくつも。緑の目が、同じ方向を見ている。向かう先は、壁だ。

消灯。

赤。

今度は赤い目が、同じ方向を見ている。止まれ、と言っている。いや、違う。止まれなのは「こちら」ではなく、向こう側だ。赤のときだけ、内側の空気がぴたりと固まる。緑のときだけ、そこに“流れ”が生まれる。

そんなふうに感じてしまった。

緑の点灯に合わせて、壁の前の輪郭がはっきりした。背中をこちらに向けている。人が、規制内の奥から壁へ向かって歩いている。歩いているのに、足音がない。代わりに、靴底を擦る音だけが、黒い一拍のときに聞こえる。

そして、輪郭は壁に近づき、壁の中へ“沈んだ”。

沈んだ、という言葉がいちばん近い。壁に触れて消えたのではない。壁の黒が、輪郭を飲み込んでいった。そこが民家の外壁であることだけが、異常に現実味を帯びる。人の暮らしが、異物を当然のように取り込む感じがした。

次の赤で、内側は静止する。緑で、また別の輪郭が浮く。消灯の瞬間に擦過音。緑で前進。赤で停止。繰り返し、繰り返し。

それは誘導だった。誰かが誰かを、壁へ運んでいる。

視線を落とすと、点字ブロックの突起の間に、湿った泥が薄く広がっているのが見えた。そこに、足跡が増えていく。ひとつ、ふたつ。裸足のように細いものも混じる。けれど規則的で、まるで行進だ。足跡は必ずL字を曲がり、必ず壁へ向かい、必ず壁の手前で途切れる。

背筋が冷たくなった。迂回しよう。見なかったことにしよう。そう思って踵を返したとき、消灯の黒い一拍が来た。

その一拍で、背後の空気が変わった。軽い圧が、腰のあたりを押した。転びそうになって踏ん張り、思わず振り返る。

緑。

横棒の向こう、コーンの列の“入口”が、ほんの少しだけ開いて見えた。開いて見えただけだ。実際には棒は動いていない。なのに、足が一歩、勝手に前へ出た。点字ブロックの上へ。

消灯。

赤。

入口は閉じた。横棒は、初めからそこにあったように固い。足は点字ブロックの上に置かれたまま。背中がぞわりと粟立った。自分が“中”にいる。

出ようとした。横棒を跨げばいい。コーンの間を抜ければいい。そう思って足を上げた瞬間、赤い目が一斉にこちらを見た気がした。赤い点が、顔になり、顔が、同時に嫌悪を向ける。踏み込め、とも、戻れ、とも言わない。ただ、「違う」とだけ告げてくる。

消灯の一拍が来た。

擦過音が、すぐ近くで鳴った。自分の右足の横、アスファルトを擦る音。誰かの足が、見えないまま並んでいる。

緑。

点字ブロックの先、L字の曲がり角に、輪郭が立っていた。さっき壁に沈んだものより、少し小さい。肩幅が狭い。首が長い。顔のところが、コーンの灯体と同じように、三つの光点で“空いて”いる。緑の光が、穴の奥で揺れている。

それは人の形をしていたが、人の気配ではなかった。息がない。体温がない。代わりに、工事現場の雨に濡れた匂いと、ゴムの擦れる匂いがする。新品の靴底を焦がす匂い。規制の内側だけ、そういう匂いが濃い。

輪郭が、L字の角を曲がった。点字ブロックの突起を、確かめるように踏んでいく。盲人の歩き方に似ていた。だが、杖はない。足だけで、突起を読んでいる。読んでいる、というのが恐ろしかった。何かが、点字ブロックを“文字”として理解している。

消灯。

擦過音が、今度は自分の靴底からした。勝手に、歩いている。止めようとしても止まらない。消灯のたびに一歩進み、緑で姿勢が整い、赤で停止する。信号に従うのは、自分の意思ではなく、足の裏だった。

赤で止まった瞬間、ふと気づいた。赤のときだけ、壁の黒い帯が、少し“盛り上がって”見える。布が膨らむみたいに。呼吸するみたいに。緑で輪郭が沈むたび、壁が満ちる。赤で、それを保持する。

壁は受け口だ。ここは、運び込み口だ。

消灯。

擦過音。

緑。

自分の前に、三つの光点の穴を持つ輪郭が、いつの間にかもう一体いる。背を向けている。列になっている。点字ブロックの上に、見えない行進ができている。自分は、その列に組み込まれている。

声を出そうとした。助けて、と言えれば、何かが変わる気がした。でも喉が凍って、空気が擦れる音しか出ない。赤の目が一斉にこちらを見るたび、言葉がほどけて消える。言葉を作る前に、「規則」が勝つ。

そして、壁が近づいた。民家の壁。誰かが眠っているかもしれない壁。カーテンの向こうでストーブが点いているかもしれない壁。そんな現実の壁に、異様な行進が吸い込まれていく。

消灯。

擦過音。

緑。

壁の表面に、指の跡のような浅い凹みが並んだ。外から押された跡ではない。内側から、こちらへ向けて押し広げられている。壁の中で、何かが向きを変える。受け取るのではなく、吐き出すような動き。

赤。

止まる。

壁の凹みが、赤い目の点滅に合わせて、わずかに位置を変えた。まるで、こちらを“数えて”いる。何体運んだのか。どれだけ満ちたのか。満ちたら、どうなるのか。

消灯が来る前に、歯を食いしばって足を踏ん張った。点字ブロックの突起に爪先を引っかけるようにして、意図的にバランスを崩した。転ぶ。転べば列から外れる。そう思った。

消灯。

転んだはずだったのに、身体は前へ“滑った”。靴底が擦れ、擦過音が大きく鳴った。転倒ではなく、搬送だった。自分は荷物になった。

緑。

壁が、ひらいた。ひらいた、というのも違う。壁の黒が、濃くなり、そこに縦長の暗さが生まれた。戸口ではない。穴でもない。黒の濃度の差だけで、入口が定義される。

その黒の中に、三つの光点があった。緑でも赤でもない。点灯の合間の、消えない光。湿った、低い光。こちらを待っている。

赤。

止まる。

次の消灯が来たら、自分はあそこへ運ばれる。そう分かった瞬間、恐怖が理屈を破った。目を閉じて、足を横へ投げた。横棒を蹴り、コーンを倒すつもりで。

消灯。

ゴン、と鈍い音がした。コーンが倒れたのか、棒が外れたのか分からない。とにかく、何かが崩れた。

緑。

視界が戻ると、自分は規制の外、歩道の端に転がっていた。膝が痛い。手のひらが濡れている。規制内は、何事もなかったように整っている。倒れたはずのコーンも、棒も、きっちり元の位置にある。

ただ、点字ブロックの上に、ひとつだけ、泥の足跡が残っていた。自分の靴底の模様ではない。裸足でもない。靴でもない。突起を踏みしめた跡が、異様に深い。

その足跡は、L字を曲がり、壁へ向かっていた。そして壁の手前で、途切れていた。自分が見たものは、やはり“いつも通り”なのだと告げるみたいに。

家へ戻って靴を脱いだとき、靴底から、かすかな擦過音がした。床に置いたはずなのに、靴が自分で小さく動く。消灯→緑→消灯→赤、あの呼吸に合わせるように。

クローゼットの隙間から、三つの小さな光が覗いた気がした。緑でも赤でもない、消えない光。目を凝らすほど、暗さが“入口”の形を取っていく。

冬の明け方四時。あの交差点の工事は、きっとまだ続いている。歩道を塞ぐあの柵は、人を遠ざけるためではない。列を乱さないためだ。

点字ブロックは、今日も、何かを壁へ導いている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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