その交番は、住宅街の角にある小さな箱みたいな建物だった。
通学路でも帰宅路でも目に入るのに、たいていは留守。窓の内側は消灯して、机と椅子だけが置き去りになっている。
だから、夕方の薄い青の時間に、赤い縦長の灯りが両側で生きているのを見たとき、思わず足が止まった。
中に警官がいた。
制服、制帽、白いマスク。椅子に腰掛け、正面を見ている。
休憩中なのだろう、と頭では片づけるのに、視線が合った気がしない。目がこちらを見ているのに、こちらに届いていない。
ガラスの左、壁ぎわに指名手配の掲示が見えた。
よくあるやつだ。顔写真が並んで、情報提供を呼びかける、あれ。
なのに、並んだはずの顔が「顔」として結べなかった。目鼻の位置だけが薄い紙の上でずれていて、笑っていないのに口角だけが上がっているみたいな、脳が嫌がる形をしている。
視線を外そうとすると、赤い灯りがふっと強くなった。点滅ではない。脈みたいに、一回だけ。
交番の中は明るいのに、空気が古い。
金属の錆と、消毒の匂いと、機械の熱。
右手の壁にはAEDが固定されていて、白い箱の透明な窓がこちらに向いている。そこだけがやけに“準備万端”で、待っている感じがした。
何かが倒れるのを、ではなく。
何かが“止まる”のを。
もう一度、警官を見た。
動かない。
瞬きもしない。
呼吸の上下もない。
それでも人がそこにいる、と信じさせるための姿勢だけが、完璧に整っている。
ガラスに自分の顔が薄く映った。
夕方の暗さで、目の位置だけが浮く。
その瞬間、掲示の一枚が、すべった。
紙が風で揺れたのではない。室内に風はないはずなのに、左端の写真だけが、ぬるりと下にずれて、新しい顔が現れた。
そこにあったのは、さっきガラスに映った、自分の顔だった。
認めたくないのに、認めるしかない形で。
証明写真の平坦さで。
無表情のまま、目だけが開きすぎている。
交番の中の警官が、初めて“こちらを見た”気がした。
視線が届いた、というより、針で糸を通されたみたいに、こちらの目に何かが繋がった。
赤い灯りがもう一度、脈を打つ。
交番の上の錆びた柵の影が、ガラスの縁に落ちて、まるで頭上に誰かが立って覗いているような輪郭を作った。
その日から、通りを歩くたびに、角が一つずつ増えていった。
近道のはずの路地が、同じ交番の前に戻る。
別の道を選んでも、気づくと赤い灯りが視界の端で生きている。
帰り道の時間だけが、薄く伸びていく。
試しに昼に通った。
交番は留守だった。いつものように暗い箱で、誰もいない。
なのに指名手配の掲示だけは、昼間の光を受けて、はっきり見えた。
一枚目、二枚目、三枚目……全部、私だった。
紙の端に印刷された番号や注意書きは、目に入っても読めない。
文字が拒絶するみたいに滑っていく。
見えるのは顔だけ。増殖した顔だけ。
夜、玄関のドアスコープを覗いたとき、外の廊下に何もいないのに、視線だけがある気がした。
スマホのインカメラで自分を映すと、マスクでもないのに口元が白く抜けた。
コンビニの防犯ミラーに映る自分は、目だけが黒く沈んで、どこまでが顔でどこからが影なのかわからない。
呼び鈴が鳴っても、訪ねてきた隣人は、私を見ずに名前だけ確認して帰っていく。まるで、そこにいるのが“本人かどうか”だけを確かめているみたいに。
ある晩、交番の前で、足が止まった。
自分で止めたわけじゃない。止まってしまった。
ガラスの中は明るかった。
机の上の書類は整っていて、椅子もきちんと引かれている。
そして、例の警官がいた。
あの日と同じ姿勢で、正面を向いている。
ただ一つ違うのは、制服の胸の名札が、紙で覆われていたことだ。
指名手配の掲示に使われる、あのざらついた紙で。
そこには顔写真が貼られていた。
私の顔が、名札の位置でこちらを見ていた。
警官は動かない。
瞬きもしない。
それでも、こちらが一歩でも近づけば、ガラス越しに“交代”が始まるとわかった。
赤い灯りが、心臓みたいに脈を打つたびに、AEDの透明窓がきらりと光って、止まるべきものの準備だけが整っていく。
私は逃げようとした。
足は動いた。
でも、交番の角を曲がっても、曲がっても、次の角に同じ赤い灯りが立っている。
交番が増えていくのではない。
私が、交番に回収されるための道に入ってしまったのだ。
最後に見たのは、ガラスの向こうの警官が、ほんのわずかに首を傾けたことだった。
初めての動き。
人間らしい動き。
それが“迎え”だったのか、“合図”だったのかはわからない。
次の日、あの交番はまた留守だった。
通りすがりの誰もが、いつも通りだと思ったはずだ。
指名手配の掲示も、いつも通りの顔が並んでいる、と。
ただ、掲示の端に、新しい一枚が増えている。
顔写真の下の名前欄が空白のまま。
目だけが開きすぎている、知らない誰かの顔。
そして夕方、赤い灯りが生きる時間になると、ガラスの内側に警官が戻る。
正面を見て、動かずに座る。
珍しく在席している交番、と誰かが思う。
その誰かが、掲示の顔に、自分を見つけるまで。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


