境界柵の規程

写真怪談

夕方になると、あの角だけ風が遅れる。

黒い柵が、歩道と車道のあいだに一本、鋸歯みたいに並んでいる。通勤帰りの私は、そこを通るたびに、柵の先がほんの少しだけ伸びて見える気がしていた。錯覚だと笑い飛ばすには、伸び方が妙に几帳面だった。

ポールに付いた縦長の標識は「歩行者専用道路 自転車を除く」。その上に、もうひとつ「自転車は通行可」。許可と禁止が綺麗に積み上げられていて、行政の文字にはいつも、体温のない安心がある。

その日も同じだったはずなのに、信号のない交差点で、私はふと足を止めた。

柵の腹に、細い光が一本走っていた。夕日が反射したにしては、まっすぐすぎる。まるで刃のように、柵の隙間を縫って、緑がかった線が一定の高さで伸びている。

あの光は“線”ではなく、“境”なのだと、身体が先に理解してしまった。

右の車道には工事車両が止まっていて、荷台の上でオレンジの重機が黙っていた。エンジンは切れているのに、重機だけがゆっくりと腕を持ち上げ、見えない土を掬う仕草を繰り返していた。誰も乗っていない。誰も、気づいていない。

私は左の細い道へ逃げるように歩き出した。住宅街のほうは静かで、日常の匂いがする。だが数歩進むと、背中に“視線”ではないものが貼りついた。測られる感じ。裁断される前の紙みたいな、薄い不安。

足元の縁石が狭い。妙に狭い。いつもこんなに、歩道は細かっただろうか。

振り返ると、柵が――増えていた。

一本一本の黒い棒が、均等に、整列して、こちらへ迫ってくる。音はない。動いてもいないはずなのに、距離が削られていく。柵の先端が、まるで髪を梳く櫛の歯のように、空気を“整えて”いる。

標識の文字が、風もないのに、かすかに揺れた。

「歩行者専用道路 自転車を除く」

その“除く”が、ふっと薄くなる。インクが抜けるみたいに。代わりに、別の二文字が滲み出た。

「歩行者専用道路 歩行者を除く」

ありえない。矛盾だ。けれど矛盾は、行政の文字に宿るとき、怖いほど整然としてしまう。私は喉が鳴るのを抑えながら、もう一度振り返った。上のプレートにも、細い追記が浮かび上がっている。

「自転車は通行可」

その下に、鉛筆で書いたような小さな字。

「……ただし、規程外を除く」

規程外。どこにも属さないもの。誰にも数えられないもの。

私は、自分が何に属しているかを、突然思い出せなくなった。

会社員。女。都民。歩行者。免許なし。——そういうラベルを頭の中で慌てて並べるたび、柵の腹の緑の線が、わずかに脈打った。ラベルが呼吸に合わせて、ひとつずつ光に吸われていく感覚がある。

そのとき、柵の隙間の向こうに、影が立った。

人の形ではない。棒と棒のあいだに、同じ幅で“区切られた”影。縦に細く、いくつも折り畳まれている。顔はない。代わりに、標識と同じ書体の文字が、影の表面をゆっくり流れていた。

「除く」
「除く」
「除く」

文字が流れるたび、影は少しずつ厚みを増す。影は柵の一本一本に分配され、柵全体が巨大な口腔みたいに見えてきた。鋸歯が、ゆっくりと開く。そこから、指が出た。人間の指ではない。標識の角のように硬い、白い指。

指先が示したのは、私の足元――縁石の狭い溝だった。

溝は、いつの間にか線になっていた。緑の光の線と同じ高さで、地面の割れ目が、まっすぐ伸びている。割れ目の中は暗いのに、奥行きだけが異様に深い。覗き込むと、冷たい風が顔に当たった。湿った土の匂いと、紙を濡らした匂い。役所の書類が雨にやられたときの、あの匂い。

私は息を呑んだ。割れ目の底で、無数の白い札が揺れている。表には黒い文字。どれも短く、しかし決定的だ。

「通行可」
「通行不可」
「除く」
「例外」
「規程外」
「削除」

札のあいだに、誰かの靴が沈んでいた。子どもの靴、革靴、スニーカー。足首から上はない。靴だけが、札の群れに混ざって、規程の底に沈んでいる。

私は逃げようとした。左の住宅街へ、いつもの道へ。だが一歩踏み出した瞬間、足が引っかかった。縁石が、さらに狭くなっている。いや、狭くなったのではない。私の“通れる幅”が削られている。

背中で、柵が鳴った。

カン、と硬い音。鉄がぶつかった音ではない。印鑑を押す音に似ていた。ひとつ押されるたびに、世界が一行ずつ確定していく。逃げ道が、条文の余白から消えていく。

私は咄嗟に、標識のポールにしがみついた。冷たい金属。そこには小さく、「某警察署」「某区役所」の名が並んでいる。守ってくれるはずの名前。だけどその瞬間、名前は“責任の所在”にしか見えなくなった。私を守るのではなく、私を処理するための窓口の名前。

柵の隙間の影が、こちらへ折り畳まれてくる。縦に細いまま、滑るように。隙間を通り抜けるのではない。隙間そのものが、影の身体なのだ。影は私の胸元に触れ、触れた箇所の空気が“白紙”になる。

私は、自分の声が出ないことに気づく。喉から音が消えている。代わりに、胸の奥で紙がめくれる音がした。ページを捲るたび、私の中のラベルが剥がれていく。

歩行者——剥がれる。
女——剥がれる。
帰宅途中——剥がれる。

最後に残ったのは、名前だけだった。だがその名前を、私は思い出せない。

影が、標識の文字と同じ黒で、私の額に何かを書き込む。

「除外」

その二文字が刻まれた瞬間、世界がほんの少し遠のいた。工事車両の重機が、ひときわ大きく腕を振り下ろす。地面は揺れないのに、私の足元だけが、ぽっかりと沈む。

縁石の溝が、口を開けた。

緑の線は刃ではなかった。裁断線だった。規程外のものを切り離し、街の端に落とすための線。柵は櫛ではなく、分別する歯列だった。

落ちていく瞬間、私は標識を見上げた。上のプレートの端に、針で掘ったような極小の追記があるのが見えた。

「自転車は通行可(あなたを除く)」

次の瞬間、視界が黒い縦線で埋まった。柵の隙間の数だけ、世界が分割されていく。どの隙間にも、同じ影が立ち、同じ文字を流していた。

「除く」
「除く」
「除く」

息ができないのに、紙の匂いだけが濃くなる。札の海が近づいてくる。靴が見える。沈んだ靴の持ち主たちは、きっと皆、何かから“除かれた”のだ。少しの不注意、少しの矛盾、少しの例外。そういうものが街角で積み重なり、規程の底に落ちていく。

最後に、耳元でカン、と印鑑の音がした。

そして世界は、私のことを、確定させた。

翌日、その交差点は何事もなかったように夕方を迎える。黒い柵は真っ直ぐで、標識も正しい。工事車両は走り去り、赤い自転車レーンには、いつもの生活が流れる。

ただ、縁石の溝の奥で、白い札が一枚増える。

そこには短く、整った文字で、こう印字されている。

「通行不可(理由:不明)」

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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