電線の網にぶら下がる夕方

写真怪談

あの路地の夕方は、いつも綺麗だった。
家々の影が伸びて、空だけがまだ明るくて、電線がその空を何本も切っていく。見上げるたび、線が増えたように錯覚する。まるで、空に網を張っているみたいに。

ある日、電線に小さな黒い塊が引っかかっているのに気づいた。
近づいて目を凝らすと、ただの枝だった。風で折れたのか、飛んできたのか。たいしたことじゃない。そう結論づけたのに、頭の奥では「釣り針」という単語が離れなかった。

その日の路地には、青い点がいくつも灯っていた。
簡素なイルミネーション。冬でもないのに、どこかの家が気まぐれで付けたのだろう。小さく、控えめに、青が明滅している。視界の端でだけ、やけに目立つ。

不思議だったのは、青い点が点滅するたび、夕方が進まないことだった。
空の色が変わらない。街灯が点いても、暗くなりきらない。帰宅の時間は確かに進んでいるのに、路地だけが“夕方の薄皮”に閉じ込められたような感じがした。

それから、見上げる癖がついた。
電柱の先、絡まる電線、右上に覆いかぶさる大きな木の枝葉。その間の、空の余白。

余白が、余白じゃない日があった。

電線の交差点——一本が別の一本を跨ぐ、そのほんの僅かな隙間に、黒が溜まっていた。
雲の影とは違う。枝葉の影とも違う。そこだけが、空に開いた穴みたいに濃い。濃すぎて、むしろ“何かがそこにいるせいで、空が見えない”としか思えなかった。

青い点が、ぱちり、と瞬いた。
すると穴の黒が、ほんの少しだけ形を変えた。人の顔の輪郭みたいに。いや、顔じゃない。顔と決めるには、あまりに平らで、あまりに静かだった。
ただ、“こちらを見ている”という手触りだけが残った。

次の瞬きで、それは電線の一本に沿って、ずるり、と移った。
移動の仕方が、鳥や猫のそれじゃない。滑るでも落ちるでもなく、「吊られているもの」が糸をたぐるように位置だけを変える。電線が、ただの線じゃなくて、細い紐に見えてくる。

私は足を止めた。
止めた瞬間、路地の音が消えた。遠くの車も、犬の吠え声も、室外機の低い唸りも。代わりに聞こえたのは、電線が張りつめるときの、あの耳の奥を撫でるような微かな鳴り。

枝が引っかかっている場所の下で、空気が少し重くなった。
枝はただの枝のはずなのに、そこだけが“結び目”に見えた。網の要所。吊り荷の止め金。

青い点が、また瞬く。

黒い穴が、枝の方へ寄った。
寄り方が、恐ろしく律儀だった。一本、一本。交差点ごとに止まり、次の瞬きでまた一つ進む。まるで、青い点が合図で、電線はレールで、黒いものはそのレールを走る“荷”だった。

私は逃げるように歩いた。
路地の奥の街灯の光が、やけに遠かった。いつもより長い。何度角を曲がっても、同じ空の色が背中に貼りつく。夕方が、私だけを待っている。

玄関にたどり着いたとき、家の中は真っ暗だった。
電気を消した覚えはない。手を伸ばし、スイッチを押す。灯りはついた。でも、ついた瞬間に気づいた。
窓の外で、青が点滅している。

うちにはそんなものを付けていない。

カーテンの隙間から見える青は、あの路地の青と同じ質感だった。控えめで、簡素で、しかし妙に“こちら側”に入り込む光。
点滅に合わせて、天井の影がわずかに揺れる。部屋の角が、少しずつ“路地の角度”になっていく気がした。

翌日、路地でまた見上げた。
電線の数が増えている。そんなはずはないのに、確かに一本余計だ。細い。毛みたいに細い黒い線が、既存の電線に寄り添って、同じ方向に延びている。

目を逸らした瞬間、頭皮がちくりと痛んだ。
引っ張られた。ほんの僅かに。けれど確実に、“上”へ。

青い点が、ぱちり。

電線が、鳴った。
張りつめた弦のように、名もない音で、私の身体の中のどこかを震わせた。

見上げてはいけない、と思った。
でも、もう遅い。視線は勝手に吸い上げられる。電線の網の、結び目の近く。枝の下。

黒がいる。
穴じゃない。穴のふりをして、そこに“重さ”だけがぶら下がっている。

それは輪郭を持たないまま、電線に沿って移動し、瞬きに合わせて近づき、近づいて、近づいて——
最後に、私の足元に落ちた。

落ちたのは、影だった。
私の影が、地面から剥がれて、電線の方向に伸びていく。糸のように細くなり、結び目へ向かって引かれていく。
足が動かない。叫び声は出ない。出ても、路地が飲み込む。

私は、自分の影が“釣られる”のを見た。
影の先に、黒い重さが触れた瞬間、頭皮の痛みが鋭くなった。髪を掴まれたんじゃない。名前を掴まれた。そんな感覚だった。

次の瞬きで、夕方が一段濃くなった。
路地の奥の街灯が、急に遠ざかった。家々の窓が、全部、青く点滅しているように見えた。

それ以来、私は夕方が怖い。
夕方そのものじゃない。電線だ。
空を切る線のどれかが、いつか私に寄り添う“もう一本”になってしまうのが怖い。

今も、日が落ちかけると、どこかで青が瞬く。
そして、頭のどこかが、ほんの僅かに上へ引かれる。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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