市の緑地課で、街路樹の名札を点検して回るバイトをしていた。
冬枯れの並木道を、ドライバー一本ぶら下げて歩くだけの、単調な仕事だ。
あの日も、いつものように幹に打ちつけられた金属プレートを拭き、ネジの緩みを確かめていた。
問題の木に気づいたのは、三本目のスズカケノキのところだった。
幹から少し浮いた位置に、銀色のバネのような金具がねじ込まれ、その先に水色のプレートがぶら下がっている。
樹種名と管理番号がかすれたそのプレートの手前で、金具に一緒に括りつけられるようにして、小さな布の袋が揺れていた。
黄色い表面に、赤い文字で「大開運」とある。
神社のお守りだ。
「……誰だよ、こんなとこに」
思わず独り言が漏れた。
街路樹に私物を括りつけるのは、規則で禁止されている。見つけたら撤去するよう、講習でも念を押された。
ちょうど背後から足音がして、先輩職員の岡田さんが近づいてきた。
白髪交じりのその人は、寒空の下でもいつもシャツ姿だ。
「あ、それ触んなくていいよ」
手を伸ばしかけた僕を見て、岡田さんが言った。
「ダメなんですか? 撤去しろって……」
「その木だけは、いい。書類上は“問題なし”にしとけ」
理由を聞くと、岡田さんは一度、幹に視線を落としてから、ため息を吐いた。
「三年前かな。この通りのはずれにある交差点で、立て続けに事故があったんだよ。みんな同じ方向から来た車が、同じ信号で突っ込むの」
「ニュースで見たかも……」
「最後の事故で、小学生の男の子がひとり、亡くなってさ」
岡田さんは、幹の皮の剥げた部分を指先でなぞる。
そこだけ色が濃く、焦げ跡のようにも見えた。
「その子のお母さんが、毎朝ここを通って通勤してたらしい。
で、ある日から急に、この木にお守りが括りつけられるようになった」
「供養……ってことですか」
「さあね。でも、お守りがついてから、ぱったり事故が止まった。
それで、みんな見て見ぬふりをしてきたわけ」
ふうん、と曖昧に相槌を打ちながらも、僕は少しゾッとした。
風が吹くたび、黄色いお守りが、ひゅるりと幹の前で揺れる。
表には「大開運」。
裏側には、小さく神社名と、なにか細かい字が並んでいるようだったが、影になって読めない。
その日も結局、触れずじまいで報告書には「異常なし」と記入した。
それからしばらく、その木のことは忘れていた。
異変に気づいたのは、二ヶ月ほど経った頃だ。
別ルートの点検を任されていた僕のスマホに、課から一斉メールが届いた。
《街路樹管理に関する苦情あり。指定箇所の違反物を撤去せよ》
添付されていた写真を見て、眉をひそめる。
例のスズカケノキと、お守りだった。
誰かが撮って投稿したのだろう。コメント欄には、「宗教物を公共物に括りつけるのはおかしい」「市は何をしている」といった文字が並んでいる。
「お守り、外さないとですね」
隣で画面を覗き込んだ同期の西田が言った。
「……まあ、そうだな」
あの岡田さんでさえ、メールには逆らえないだろう。
嫌な予感を覚えながら、その日の午後、僕と西田は現場に向かった。
木の前に立つと、前よりも幹の剥げた部分が増えている気がした。
ところどころ、皮が裂けてめくれ上がり、淡い赤茶色の地肌がむき出しになっている。
「この木だけ、やたら傷んでるな」
西田がそう言って、幹をノックした。
コン、コン、と乾いた音が返ってくる。
なぜか、二度目の音のとき、幹の奥から別の音が重なって聞こえた。
鈍い、低い響き。
衝突音に似ている、と一瞬思った。
「じゃ、俺プレートのネジ緩めるから、お前お守り外してくれよ」
西田がドライバーを取り出し、水色のプレートを固定しているバネの根元に差し込む。
言われるままに、僕はお守りの紐に指をかけた。
冷たかった。
冬の空気というより、金属の内側からしみ出してくるような温度だ。
布越しに、中に入っている何か固いものの形を指先がなぞる。
丸い。木の実みたいな感触。こんなもの、入っていただろうか。
そのとき、視界がきゅっと狭まった。
横断歩道の白いラインが、目の前を流れていく。
小さな手を握っている。温かい。
青信号。走り出す。
斜めから、ヘッドライト。
車体の金属がきしむ音。息が止まるほどの衝撃。
——替わってあげて。
誰かの声が、頭の中で響いた。
女の人の、かすれた声。
僕は息を吸うことも忘れ、手を離した。
気づけば、また木の前に立っていた。
お守りはまだ、バネにぶら下がったまま揺れている。
「おい、大丈夫か? 真っ青だぞ」
西田の声で我に返る。
彼の手元を見ると、ドライバーはプレートに触れていない。
ネジの頭には、さっきと同じように錆が浮いている。
「……外さない方がよくないかも」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
西田は目を丸くする。
「は? 何言ってんだよ。仕事だろ」
「でも、事故があったって——」
言いかけたとき、風が吹いた。
幹の剥げた部分が、ざわ、と動いたように見えた。
よく見ると、剥がれた木肌の形が、人の影に似ている。
横向きの頭、細い肩、伸ばされた片腕。
ちょうど、お守りに手を伸ばしているような。
「……なあ、お前も見える?」
僕が尋ねると、西田は首をかしげた。
「何が?」
「ほら、ここ。人みたいな——」
「木は木だろ。ビビらせんなって」
冗談めかして笑う西田の声が、急に遠く聞こえる。
僕には、もうひとつ別のものが見えていた。
幹の模様の中に、小さな手形がいくつも浮かんでいる。
雨染みのような、淡い輪郭。
それがゆっくりと、お守りの方へ押し寄せている。
——替わってあげて。
さっきと同じ声が、はっきりと耳元で囁いた。
次の瞬間、幹に埋もれた手形のひとつが、表面からぷくりと盛り上がる。
木の皮が、内側から押し開かれていく。
指先の形。小さな爪。
それが、黄色いお守りの紐を、内側から掴んだ。
「っ——!」
僕は反射的に、西田の腕を引っ張った。
その勢いで、彼の手からドライバーが落ちる。アスファルトに当たって、甲高い音を立てた。
「何すんだよ!」
「ダメだ、これ外したらまずいって!」
息を荒げて叫ぶと、西田は一瞬、ぽかんと僕を見つめ、それから顔をしかめた。
「……マジで具合悪そうだな。今日はもう上に連絡して、様子見にしようぜ」
そう言って、彼は撤去作業を中断してくれた。
僕らは報告書に「金具の腐食が激しいため後日専門業者対応」と書き込み、その場を離れた。
その夜、寝つけずにスマホを眺めていると、ニュースアプリから通知が来た。
件名は、見覚えのある交差点の名前だった。
《信号機故障による交通事故、軽傷者多数》
記事の写真には、パトカーと救急車が入り乱れた、あの交差点が映っている。
木のある歩道のすぐそばだ。
記事をスクロールする指が止まった。
写真の端に、小さく映っている。
街路樹の幹と、水色のプレート。
その前で、黄色い点のようなものがわずかに揺れている。
あの木が、事故のたびに何かを吸い取っている。
そんな考えが、頭から離れなかった。
翌週、岡田さんに呼び止められた。
「例の木、どうなった?」
「撤去は見送りです。金具の腐食が……」
「そうか。なら、もうほっとけ」
岡田さんは、ポケットから煙草を出すふりをして、代わりに白い封筒を取り出した。
表には、手書きの文字で僕の名前。
裏には、あの神社の印と、朱色の判が押されていた。
「残ってたんだとさ、同じ種類のお守りが一つ。事務所のポストに入ってた。差出人はなし」
「……え?」
「嫌なら捨てていい。ただ——」
岡田さんは、僕の目をまっすぐ見た。
「運を分け合う、って考え方もあるからな」
家に持ち帰った封筒の中には、新品の「大開運」のお守りが入っていた。
写真の木にぶら下がっているものと、全く同じデザイン。
ただひとつ違うのは、小さな札に書かれた文字だった。
『身代り完了 次(ツギ)』
「次」の字の横に、ボールペンで書き足されたように、僕の名字があった。
手が震えた。
すぐにゴミ箱に投げ込もうとして、思いとどまる。
——替わってあげて。
あの声が、耳の奥でこだまのように続く。
もし捨てたら、どこか別の誰かが、“次”にさせられる気がした。
僕は結局、そのお守りを机の引き出しの一番奥にしまった。
鍵をかけて、それきり開けていない。
春になって、交差点の信号機は新しいものに交換され、事故のニュースも聞かなくなった。
ただひとつ変わらないのは、あの木だ。
今でも、幹には水色のプレートと、最初のお守りがぶら下がっている。
近くを通るたび、木肌の模様が、ゆっくりと増えているように見える。
小さな手形。
押し寄せる影。
それら全部が、僕の方を向いている気がして、僕はいつも、目を逸らして通り過ぎる。
運がいいことが続くたびに、ふと考えてしまう。
そのぶんどこかで、あの木肌が、誰かの痛みを代わりに刻んでいるのではないかと。
そして、机の引き出しの中で眠る、もうひとつの「大開運」が、いつ目を覚まして僕を“次”に選ぶのかを——。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


