北国の冬が本気を出すと、世界はあっという間に単色になる。
空も大地も、家の形さえも、全部まとめて同じ灰がかった白で塗りつぶされてしまう。
あの日もそうだった。
吹雪で視界が真っ白になった畑の奥に、波打つような白い列がかすかに見えていた。
雪にすっかり埋もれたソーラーパネルの列だ。
数年前までそこには畑があった。
トマトだの豆だのを作っていた老夫婦が高齢でやめて、息子が業者を入れて、補助金目当てに一面パネルだらけにした。
村の人間は最初こそ「時代だねえ」と笑っていたが、最初の冬を越えたあたりから、あの一帯のことをあまり口にしなくなった。
「冬のあいだは、あそこへは近づくなよ」
そう言い出したのは、雪下ろしのアルバイトをしていた若い連中だ。
パネルの上の雪を落とす作業は危ないので、必ず三人以上で、ロープをつないでやるように決められていた。
それでも、一人、二人と「もう行きたくない」と言い出した。理由を聞いても、みんな言葉を濁す。
ただひとり、酒が入ったときにだけ、こんなことを漏らしたやつがいた。
「雪の下でさ……誰かが、息してるんだよ」
笑い話のつもりで聞いていたが、その冬の終わり、そのアルバイトの一人が行方不明になった。
吹雪の夜に、仕事場から家へ歩いて帰る途中だったらしい。
足跡の途中で、急に足跡そのものが“消えていた”と警察は言った。
それから数年が経ち、俺は転職して村に戻ってきた。
冬場の仕事が少ないので、ソーラーパネルの持ち主から「管理を手伝ってくれ」と頼まれた。
雪下ろしも仕事のうちだが、「今は安全管理が厳しくなってるから」と言われ、専用の道具や命綱を見せられて、妙に安心してしまった。
問題の日は、一月の終わり。
朝から吹雪で高速道路が止まり、雪下ろしに来るはずの業者が足止めを食った。
「とりあえず見回りだけでも」と頼まれて、俺は一人で畑へ向かった。
本当は規則違反だが、雪は思った以上の勢いで積もっていて、このままではパネルの架台ごと潰れかねない。
畑に出ると、腰まである雪をラッセルしながら、パネルの列の手前までたどり着いた。
手前の柵は、ところどころ雪に押しつぶされて、ワイヤーが波打っている。
その向こうに、規則正しく並んだ雪の盛り上がりが見えた。
黒いパネルは完全に隠れていて、遠目には、雪をかぶった細長い墓がずらりと並んでいるようにしか見えない。
風は強いのに、世界はやけに静かだった。
耳に聞こえるのは自分の息と、遠くの線路の方からときどき聞こえる、電線が唸るような音だけ。
踏みしめた雪はぎゅう、と鈍い悲鳴のような音を立て、すぐにまた吹きだまりに飲み込まれていく。
一列目の端に立ち、俺はスコップを突き立てた。
と、その瞬間、足元の雪がかすかに沈んだ。
パネルの位置などとうに見えないはずなのに、踏んだところだけ、下から押し返されるような、柔らかい弾力がある。
(……積もった雪って、こんな感触だったか?)
もう一度踏み直すと、今度は“踏み返された”。
足裏の形に合わせて、なにかが下からゆっくりと盛り上がってくる。
膝までの深さの雪の、さらにその下で、誰かが仰向けになって背伸びをしている――そんなイメージが頭に浮かび、背筋が冷えた。
慌てて一歩引くと、俺の足跡はすぐに吹きだまりに飲まれた。
だが、風とは逆向きに、すっと雪面が滑り、さっき俺が立っていた場所に細長い“くぼみ”が残った。
肩幅ほどの、人ひとり分の溝。そこだけ雪の表面が、内側から撫でられたようにつるりと平らになっている。
「……うわ、気味悪」
ひとりごとを漏らしながらも、俺は仕事を優先しようとした。
スコップを振り上げ、雪を払い、パネルの端を掘り当てる。
黒いガラスの面が少しだけ姿を見せたとき、そこにうっすら映ったものを見て、手が止まった。
それは、俺の顔ではなかった。
曇りガラス越しに見ているようなぼやけた輪郭の中で、鼻も口も溶けたように曖昧なのに、目だけがくっきりと開いている。
黒い面の内側からこちらを見上げている“顔”だった。
瞬きをしたつもりなのに、映像はまったく揺れない。
代わりに、ガラスの奥の暗闇の方が、くぐもった息を吐くみたいに、ふう、と白く曇った。
慌ててスコップで雪をかき戻すと、顔はすぐに隠れた。
心臓が痛いほど早く打ち始める。
それでも、ここで逃げ帰ったら、翌日にはきっとパネルの半分が雪の重みでダメになる。
二列目、三列目と、俺はほとんど意地で雪を切り崩していった。
どこを掘っても、黒い面を覗けば必ず、誰かの目があった。
老人のような、子どものような、性別も年齢も判然としない目が、みんな同じ表情で、同じ角度でこちらを見ている。
それは鏡に映った俺ではなく、もっと別の“共通の何か”だった。
四列目まで来たとき、突然、風がぴたりと止んだ。
耳の中の自分の血の音が、やけに大きく聞こえる。
代わりに、パネルの架台の下の方から、ジジジ……と高いノイズのような音がした。
夏場なら、インバーターが動いているのだろう、と笑って済ませられたかもしれない。
だがその日は、太陽どころか空の色さえ見えない吹雪の日だ。
発電しているはずがない。
嫌な予感がして、俺は列の端にある制御盤の方を振り返った。
雪に半分埋もれたボックスの小さな窓に、数字の列が淡く光っている。
「0.0kW」だったはずの表示が、いつのまにか「1.3」「2.8」「3.9」とじわじわ増えていく。
まるで、誰かの息を吸うたびに、値が一つずつ跳ね上がっているみたいだった。
そのときだ。
足元の雪が、いっせいに息を吸った。
畑一面の白い盛り上がりが、ぞわ、と一斉に膨らむ。
パネルの列という列が、布団の下で寝返りを打つように、わずかに持ち上がった。
波がこちらに向かって押し寄せてくると同時に、雪の中から無数の気配が立ち上がる。
声にはならない。
ただ、耳のすぐ横で誰かが何十人も一緒に吸って吐いてを繰り返している、あの湿った音だけが、頭の中いっぱいに広がる。
視界の端で、家々の屋根の雪も、同じリズムでふくらんだり沈んだりしているのが見えた。
村じゅうの雪が、一つの巨大な肺みたいに、俺の立っている場所に合わせて呼吸している。
膝が抜けて、俺は前につんのめった。
顔から雪に突っ込み、そのままパネルの上に倒れ込んだ。
厚い雪の層の向こうで、氷のように冷たいガラスに、頬が吸い付く感触がある。
その瞬間、耳元でノイズがはっきりと言葉に変わった。
――お前も、ここに。
意味がわかった、というより、勝手にそう解釈させられた感覚だった。
脳みその中に直接、誰かの呼吸が流れ込んでくる。
その息は、俺の肺の中身を少しずつ、ガラスの向こうへ引き抜いていく。
雪の上なのに、沈んでいく。
体の輪郭がどんどん薄くなり、自分が“影”だけになって、パネルの黒い面に貼りついていくのがわかる。
俺は必死に手を伸ばし、近くの柵のワイヤーを掴もうとした。
指先が何か硬いものに触れた瞬間、頭上から別の衝撃が降ってきた。
バサァッ、と凄まじい音とともに、近くの家の屋根から雪庇が崩れ落ちたのだ。
揺れでパネルの列が震え、雪の波が一瞬だけ乱れた。
その隙に、俺はパネルの表面から体を引きはがし、四つんばいのまま転げ出た。
振り返ると、さっきまで俺が倒れていた場所に、くっきりと人の形の凹みが残っていた。
それはすぐに内側から押し上げられ、表面がなめらかな一枚の布のように整えられていく。
雪の下から、まだ息を合わせようとしてくる気配がある。
制御盤の表示は「8.1kW」まで跳ね上がっていた。
吹雪の真っ最中、太陽がどこにも見えない時間帯の数字ではない。
俺は道具もそこに捨てたまま、ほとんど這うようにして畑から逃げ出した。
背中越しに、何十枚ものパネルが一斉にこちらを振り向いたような気配が追ってきたが、振り返る勇気はなかった。
その日以来、冬場の雪下ろしは完全に外部の専門会社に委託され、俺があの畑に入ることはなくなった。
業者も初年で契約を切り、翌年からは「危険すぎる地形」という理由で、冬のあいだは手をつけないことになったらしい。
それでも、春先になると、電力会社から持ち主に「冬場の発電量が妙に高い」と問い合わせが来る。
吹雪の日の夜だけ、短時間だが夏場並みのピークが必ず出るのだという。
監視カメラをつけてみたが、雪しか映らなかった。
ただ、一番奥の列の上に積もった雪だけが、映像の中でゆっくりと上下していたらしい。
「あれ、呼吸してたよな」
そう言って笑った電力会社の担当者は、その年の冬、別の現場で凍死体で見つかった。
ニュースでそれを知った夜、俺は外の吹雪の音に耐えきれず、カーテンを全部閉めた。
窓の向こうでは、埋もれたソーラーパネルの列が、今も静かに息をしている。
雪に覆われるあいだだけ、太陽の代わりに、近くの家一軒一軒から、じわじわと“温度”を集めているのだと思うと、ストーブの火でさえ落とすのが怖くなってくる。
電気代の明細に「今月は再エネポイントが上乗せされます」と書かれているのを見るたび、俺は思う。
この冬もまた、あの雪の下で、誰かが一人分、発電しているのかもしれない、と。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


