水面の境界を釣る人

写真怪談

湾岸の物流センターで働きはじめてから、昼休みはよく裏手の遊歩道を歩くようになった。
倉庫の壁を回り込むと、すぐ目の前は海だ。遠くの沖には、白と青の輪っかみたいな構造物が浮かんでいて、その上空を、着陸前の飛行機が静かに横切っていく。

遊歩道の下には、コンクリートの護岸が階段状に落ちていて、そこから何人かが釣り糸を垂らしている。
その中に、ひとりだけ少し離れた場所に立つ男がいた。

背中までフードを深くかぶり、黒いパーカーとジーンズ。
足元ぎりぎりまで草と灌木が生えた斜面に、まるで刺さるように立っている。竿は海に向けているのに、風が強い日でも、ほとんど微動だにしない。

「あの人、いつもいるよな」
ある日、喫煙所で缶コーヒーを飲んでいると、同僚の荒木が遊歩道の方を顎でしゃくった。
「どの人ですか」
「ほら、木の横。ひとりだけ離れてるだろ。あそこ立入禁止のはずなのにさ」

言われて見下ろすと、たしかに、黄色い注意テープが切れたままぶら下がっている場所に、その男は立っていた。
昨日も見た気がする。一昨日も。その前の週も。

「シフト違う日は来ないんじゃないですか?」
冗談半分で言うと、荒木は首を横に振った。
「いや、夜勤明けで帰るときもいるし、土日出社したときもいたよ。ここ、十年前に落ちた人がいるんだ。フォークリフトごと海に」

初耳だった。

「荷物積んだままバックで出て、そのまま護岸から落ちたらしい。リフトだけは引き上げたけど、運転してた人は、とうとう見つからなかったってさ」
荒木は缶を握りながら、海の方を見た。
「釣りが好きな人でさ、残業終わってからも、よくそこで竿出してたんだって。──場所、まるっきり同じだろ」

そう言われると、急にその背中が重く見えた。

それから気になって、昼休みのたびにその男を目で探すようになった。
他の釣り人たちは日によって入れ替わる。だが、木の横の斜面に立つ男だけは、いつも同じ格好、同じ姿勢のままだった。

気味が悪いのは、あの人だけ、海面がほとんど揺れていないことだ。
周りの水面には風でさざ波が立っているのに、彼の足元から沖へ向かって一本だけ、妙に平らな帯が伸びている。
まるで海の上に、細い“道”が残っているみたいに。

ある日、スマホのカメラをズームしてみた。
レンズ越しに見ると、竿から伸びる糸が、まっすぐその帯の上を走っているのがわかる。
そこまでは普通だ。

おかしいのは、その先だった。

糸は海に沈まず、水平に伸びたまま、沖の白い輪っかのあたりまで続いている。
よく見ると、水面の途中に、糸がふっと途切れている場所があった。
その途切れたあたりで、海がごく細い線状に、内側へ折れ曲がっている。

指で画面を拡大した瞬間、ぞわっと鳥肌が立った。

その折れ目の中に、頭と肩の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいたのだ。
水面の上に、誰かが「立っている」ように。

思わずスマホを下ろすと、肉眼では、ただの灰色の海に戻っていた。
もう一度構え直そうとしたとき、下から視線を感じた。

フードの男が、こちらを見上げていた。

フードの奥は影になって顔は見えない。
それでも、「見られている」とわかる気配が、こちらの胸をまっすぐ刺してくる。
慌ててスマホをポケットに押し込み、建物の中へ逃げ込んだ。

数日後、台風が近づいているというのに、センターはいつも通り稼働していた。
外は細かい雨が降り、遊歩道には誰もいないだろうと思っていた。

夜の休憩室で自販機の前に立っていると、窓の外に人影が見えた。
暗い海と倉庫の隙間、その境目に。

あの男だった。

雨粒にかすむ街灯の下で、フードの輪郭だけが妙に濃く浮かんでいる。
風で枝が揺れているのに、男はまったくぶれない。
竿だけが、ゆっくりとしなっていた。

気づくと、窓に張り付くようにして外を見ていた。
ちょうどそのとき、一機の飛行機が低く飛んできた。
機体のライトが、沖の輪っかと海面を白くなぞる。

その光の中で、男の釣り糸がはっきりと見えた。

やはり糸は海に沈まず、真横に伸びている。
光の筋の中を、銀色の糸が一本、空中に引かれているようだった。

そして、沖の方に、もうひとつ「人の形」が見えた。

輪っかの少し手前、水面の上に、膝まで沈んだような姿勢で誰かが立っている。
肩から上だけが海から抜けていて、その胸元に、男の糸が突き刺さるようについていた。

飛行機のエンジン音に紛れて、どこかからジィィィとリールを巻く音がする。
糸がゆっくりと短くなり、水の中の人影が、少しずつこちらへ引き寄せられてくる。

息をするのを忘れて見ていると、不意に、その人影の頭がこちらを向いた。

目が合った気がした瞬間、窓ガラスにバシャッと水が叩きつけられた。
思わずのけぞると、外には何もない。雨が強くなっただけだ。

ただ、ガラスの外側に残った水の筋が、まるで指でなぞったように、胸の位置から斜め下へと一本、引きずられていた。

その翌週、「護岸の立入禁止区域には絶対に降りないこと」という注意喚起のメールが全社員に回った。
理由は書かれていなかったが、噂話はすぐに広まる。

夜勤の警備員が、監視カメラに映った映像を見て腰を抜かしたらしい。
荒木がこっそり教えてくれた。

「護岸カメラにさ、ずっとあの釣り人が映ってるんだって。
 で、ある時間になると、画面が一瞬だけ真っ暗になってさ。戻ると、今度はカメラの“レンズの前”に、水がついた足跡だけ残ってるんだと」

「レンズの前に、足跡?」
「そう。床でもコンクリでもなくて、画面いっぱいに、濡れた足の裏の形が二つ。
 それが徐々に滲んで消えるまで、映像は止まったみたいに動かないんだって」

荒木は笑おうとして、うまくいかなかった。

「しかもさ、その間だけ、護岸の方から“もう一人分の声”が聞こえるらしい。
 名簿にない声だって」

休みの日、なんとなく落ち着かなくて、仕事帰りのルートを変えた。
センターとは反対側の、公共の遊歩道からなら、あの場所を少し離れて見ることができる。

曇り空の下、海は写真の中みたいに均一な灰色をしていた。
岸辺の草むらは濡れて重たそうに垂れ、そのすぐ脇に、例の男が立っている。

せっかくなので、車に積んでいた自分の釣竿を持ち出した。
「同じ場所で釣ってみたら、何か分かるかもしれない」
そんな、しょうもない好奇心だった。

男から少し離れた安全な場所に立ち、海に向かって竿を振る。
糸が放物線を描き、ちゃぷん、と水音がした。

その瞬間、足元の感覚がふっと軽くなった。
地面が一枚、薄い皮だけになったような頼りなさを覚える。

リールを巻こうとすると、ぐい、と逆方向に糸が引かれた。
魚の手応えとは違う、ゆっくりとした、しかし逃げ場のない重さ。

竿を構え直すと、糸の先が、海ではなく、斜め上へ伸びているのが見えた。

灰色の水面に、自分の姿がぼんやりと映っている。
その“映り込み”から、細い糸が抜け出して、まっすぐ対岸の物流センターへ伸びていた。

センターの遊歩道のあたりに、誰かが立っている。
遠くて表情は見えないが、こちらと同じ格好をして、同じように竿を握っている。

自分が、向こう側から「釣り上げられている」ような気分になった。

手を離そうとしても、指が竿からはがれない。
代わりに、背中の方でジィィィとリールの音がした。

振り向かなくてもわかった。
すぐ後ろ、木の陰で、あのフードの男が、俺に重ねるように竿を握っている。

俺の体を通して、糸が二本、交差している感覚があった。
ひとつは海に向かい、もうひとつは対岸へ。

胸の奥が冷たく締めつけられ、息を吸うたびに、肺の中を潮水が行ったり来たりする。
遠くで飛行機のエンジン音が膨らんでいく。

「引かないと、戻れないよ」

誰かの声が、海の底から泡のように上がってきた。
人間の声のはずなのに、耳ではなく、骨に直接響く。

次の瞬間、頭上を飛行機が通り過ぎ、轟音とともに海面が震えた。
揺れで足を滑らせ、その拍子に竿が手から離れる。

糸が張りつめた音を立てて切れ、白く縮れた先だけが空中に残った。

振り返ると、木のそばには誰もいなかった。
ただ、斜面の土が、二人分の足で踏みしめられたように、深く沈んでいた。

後日、荒木がスマホを見せてきた。
「この前、お前が休みの日、たまたま飛行機から撮ったって人がいてさ。社内チャットで回ってきたんだよ」

そこには、上空から見下ろした湾の写真が写っていた。
物流センターの白い屋根と、その前の遊歩道。
護岸の斜面に、木の影と、黒い点が二つ並んでいる。

ひとつは、海に向かって竿を構えた人影。
もうひとつは、そのすぐ後ろで、まるで同じ姿勢をなぞるように立つ、もう一人の影。

写真を拡大すると、前に立つ方のシルエットは、どことなく自分に似ていた。
そして後ろの影の足元から、細い線のような波が一本、海へ向かって伸びている。

その線は途中で途切れ、沖の輪っかの手前で、ぽつんと人ひとり分の濃い影に変わっていた。

今でも昼休み、海を見下ろすと、あの斜面には誰かが立っている。
釣り竿を持っている日もあれば、何も持たず、ただ水面の境界をじっと見つめている日もある。

どちらが生きている方で、どちらが釣り上げられた方なのか。
それだけが、どうしても判別できないままだ。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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