花屋の前を通るとき、いつも少しだけ歩幅を狭めてしまう。
商店街の一番暗い路地に、その店はある。外に溢れた鉢植えと、カラフルな値札が通路を細く削っていて、立ち止まらないと中の様子が見えない。
店の奥へ伸びる通路は、石畳が一本だけ真っ直ぐ敷かれている。両脇には、鉢植えや花束が積み上がるように並んでいて、天井からも吊るされた観葉植物の葉が垂れている。写真に撮ると、花でできたトンネルみたいに見えるだろう。けれど実際に立つと、そこだけ空気が重い。
あの店でアルバイトをしていた友人から、「七時を過ぎたら、真ん中の石の上は歩くな」と聞いたのは、去年の冬だった。
「邪魔だから?」と冗談めかして訊ねると、友人は笑わなかった。
「お得意さんがいるんだよ。もう来ないはずなんだけど、毎晩通るから」
その「お得意さん」は、生花を抱えたまま店の前で事故に遭ったらしい。仕事帰りに必ず寄って、仏壇用の小さな花束を買っていく中年の女性だったという。ある晩、いつも通り通路を抜けてレジへ向かった瞬間、店先の道路でトラックがスリップし、彼女ごと花を踏み潰して止まったのだと、店主から聞かされたそうだ。
それから、七時になると通路の両側の花が、同じ方向へ少しだけ倒れるようになった。目には見えない何かが、その石畳の上を通っているみたいに。吊るされた観葉植物の葉先も、そこだけ一斉に揺れるという。
「風なんか入ってこないのにさ。あそこだけ、葉っぱが誰かの肩をよけてるんだよ」
友人はそう言って、笑おうとして失敗した顔をしていた。
ある夕方、その友人が高熱で店を休んだ。代わりに、近くで働く俺が閉店作業を手伝うことになった。
七時を少し過ぎた頃、店主に「奥からシクラメンの鉢を二つ持ってきて」と頼まれた俺は、言われた通り通路の奥へ歩き出した。
注意されていたことを、石畳に足を乗せる瞬間まで、すっかり忘れていた。
踏んだ途端、足首まで冷たい水に浸かったような感覚がした。見下ろすと、石はただ濡れたように暗い色をしているだけなのに、靴底越しに、流れていく何かの温度がはっきり伝わってくる。
右側の花束のビニールが、音もなくへこんだ。そこに「誰かの肩」が触れた形で、花びらが左右に割れている。目で追っていくと、その凹みが奥から手前へ、ゆっくりと近づいてきていた。
慌てて通路の端に逃げようとしたが、足が動かない。冷たさが膝のあたりまで這い上がってきて、体の内側に小さな花瓶がいくつも埋め込まれていくような、奇妙な痛みがした。
視界の端で、値札がひとつ、またひとつと裏返る。赤いマジックで書かれていた価格の数字が、裏面には細い文字に変わっているのが見えた。
「七時です。通ります」
そう読めた瞬間、その文字はインクごと紙から抜けて、空気の中へ滲み出した。
顔を上げると、通路の真ん中に「人の形」が立っていた。
輪郭は花の影でできていて、白や赤、紫の花びらが、体の表面でゆっくりと開いたり閉じたりしている。目にあたる場所だけ、花が一輪も咲いていない。そこは、空気だけがぎゅっと押し固められたように、じっとこちらを向いていた。
次の瞬間、その空洞がぐっと近づいた。匂いだけが一気に押し寄せる。ユリやカーネーションの甘さに、濡れた土の生臭さと、古い血の鉄の匂いが混ざり合っていた。
「すみません」と声が喉まで上がったが、口が開かなかった。代わりに、両側の花束の中から同じ言葉が漏れた。包み紙の隙間で、花弁が一斉に震え、「すみません」「すみません」と擦れ合う音になっていく。
気づいたときには、俺は通路の端に倒れ込んでいた。石畳の上には、濡れた足跡がひとつだけ、店の奥から入口へ向かって続いている。誰のものでもないその足跡は、店先の道路で唐突に途切れていた。
通路の花たちは元の向きに戻っているのに、値札だけは全て裏返ったままだった。裏面の文字はもう読めない。ただ、どれも濡れたように滲んでいて、紙から垂れたインクが、まるで線香の煙みたいに細く揺れていた。
その夜、商店街のまとめサイトを何気なく開くと、特集記事の中にその花屋の写真が載っていた。
花で埋まった通路の真ん中に、石畳の線が一本まっすぐ伸びている。よく見ると、入口のあたりで、その線の上だけがわずかに暗い。露出のせいかと思ったが、拡大すると、そこにだけ、人ひとり分の縦長の影が重なっているように見えた。
写真の日付は、ちょうどあの日の七時十分。
俺が通路の上で立ち尽くしていた時間と、ほとんど変わらない。
今でも店の前を通るたび、花でいっぱいの通路を覗き込んでしまう。
あの石畳の上が空いていると、ほっとする。
逆に、花で通路がぎゅうぎゅうに詰まっている日があると、足を止めることなく早足で通り過ぎる。
通路が見えないほど花が並ぶのは、その「お得意さん」が、今も誰かの邪魔にならないよう、体を小さくたたんで立っている時だけだと、勝手に思い込んでいるからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。



